富山のセーヌ川「松川」と「城址大通り」をもっと誇りに!

作/中村 孝一

 富山市が戦後復興に当たり、なんとパリのセーヌ川を中心にした街づくりを参考にデザインしたということを、市民にはあまり知られていない。
 当時、パリから帰ってきたばかりの改井市長は、「松川は富山のセーヌ川、市民が誇りを持てるよう、もっと美しくしなければならない」と当時の建設省に陳情し、上流の土川に浄化用水を取り入れるためのラバーダム(ゴム製の可動堰)を建設してもらうことに成功。
 当時、松川は生活排水などで汚染され、ドブ臭がして近寄れない程で、経済界からコンクリートで蓋をして、駐車場にしようという無謀な計画が発表されるほどだった。
 改井市長は、「パリのセーヌ川は、川幅が松川の2〜3倍はあるようでしたが、散策を楽しんでいる人、画架を立てて絵筆をとっている人、ベンチで頬を寄せ合っている若い人たち、という風景は忘れることのできない、風情のある一コマでした。街にはそれぞれの風情や風格があって当たり前でしょうが、大部分が焼失したとはいえ、20数年を経た今日、富山市にもそういう自然の風格が出るように街を手がけてゆかなければならぬのではなかろうか、と思っています」
 「パリはセーヌによって生まれ、セーヌと共に育ってきた」とパリ市民は誇るが、なんとパリ市の紋章は、その川と船をかたどったものである。「たゆたえども沈まず」と記された言葉には、パリが2000年歩み続けてきた歴史がある。
 戦後、焼け野原となった富山市を見た都市デザイナーは、富山駅を凱旋門にたとえ、凱旋門から八方に伸びる道路のように、富山駅前から道路を八方に伸ばしたのだ。なかでも凱旋門からセーヌ川に向かって伸びるシャンゼリゼ通りのように、富山市のシンボルロードとして、松川に向かって城址大通りを建設した。車道の両側に広い歩道を設け、車道の真ん中と歩道との境にも緑の並木を設け、市民や観光客の憩いの場として利用できるようにした。
 松川に遊覧船の運航を始めたばかりの時、当時の正橋市長にお会いすると、「外国から見えられた方が、城址大通りを見られて、『まるでパリのシャンゼリゼ通りのようですね』とおっしゃったんですね。風格のある街づくりを進める私達としては、とても誇らしく思いました」と。
 富山のセーヌ川「松川」と、シャンゼリゼ通りにたとえられる「城址大通り」を、私達も正橋様のように誇りを持って、全国、いや世界に向かって発信していきましょう。

シャンゼリゼ通り(パリ)

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