ラミー紡績とは?
かつて富山市の不二越駅北西、現在の富山立山公園線の北側に広がる一帯には、「第一ラミー紡績」という巨大な紡績工場が存在していた。
まず「ラミー」とは、古代エジプト時代から人類に利用されてきた麻の一種である「苧麻(ちょま)」を指す。麻の中でも特に繊維が柔らかく、その優れた肌触りから「絹麻」と称えられた。このラミー製糸の改良に十余年を捧げた木村崇吉らの研究成果を工業化しようとしたのが物語の始まり。
大正5年、関西に本社を置き、富山に工場を設置する計画が市に持ち込まれた。富山市は商工会議所や地元の有力経済人と協議を重ね、愛媛県今治での実地視察を経て事業の有望性を確信。そして県下の有志多数を招いた相談会を経て、大正6年4月に「第一ラミー紡績株式会社」が設立された。工場の建設地は山室村に決定し、大正8年から本格的な操業を開始した。
しかし、操業開始直後に工場が火災に見舞われ、翌大正9年には戦後恐慌による株式暴落と深刻な不況に直面。経営危機に伴う賃金カットをきっかけに激しいストライキが発生し、労働争議が展開された。昭和に入り日中戦争が勃発すると、産業構造は軍事優先へと大きく舵を切った。第一ラミー紡績は、新庄分工場の建設や台湾での原料確保、大規模な従業員募集など、戦時下の需要に応じて一時的に規模を拡大。しかし、昭和16年からは国策による業界統合が始まり、資本金で10倍もの規模を誇る「日満亜麻紡績」に吸収される形で、昭和17年に新会社「東亜麻工業」へと統合された。
その終焉は、あまりに悲惨だった。昭和20年8月2日の富山大空襲により、長年築き上げられた工場群は一夜にしてすべて灰燼に帰してしまった。終戦後、会社は「日本繊維工業」と名を変え、焼失を免れた堀川工場を中心に再編されたが、山室の工場跡地が再興されることはなかった。
かつて広大な敷地を誇った工場跡は、昭和21年頃から民間住宅地として分割販売され、現在は静かな街並みへと姿を変えている。
参考/『山室郷土史』(山室郷土史刊行委員会)























