古川(富山市)…かつての神通川河口の名残り

 神通川の河口は、少なくとも江戸時代初期においては、西岩瀬・四方付近を流れていた(それ以前には、打出を流れていたこともあったとか)。
 室町時代に成立したとされ、わが国で最も古いといわれる海商法規「廻船式目」では、三津・七湊が記され、その中に「越中岩瀬」とあるのは、この西岩瀬港と考えられる。
 寛永16(1639)年、加賀藩3代前田利常が加賀小松に隠退する時、幕府の厳しい監視の目をやわらげるため、加賀・越中・能登の120万石のうち、計約10万石を次子利次に与え、富山藩が誕生した(三子利治には大聖寺7万石を与えた)。
 この頃の西岩瀬港について、正保4(1647)年の「越中道記」では、「400〜500石の船が何風であっても50〜60艘も港入りができ、空船であれば200艘も入港できる」と記しているそうだ。
 慶安5(1652)年、利常は、富山藩と加賀藩の境界について、「神通川の中央を境界とし、川の流路が変わっても同様とする」と裁定した。
 万治2(1659)年、神通川は大氾濫によって大きく現在の東岩瀬側にも分流し、寛文8(1668)年の洪水で、ついに新しい流れが本流となった。このため、西岩瀬の船主・船宿の多くが東岩瀬へ移った。旧流は、草嶋川、神通古川とも呼ばれ、新流は、千原崎川とも呼ばれた。旧流は、土砂の堆積により、衰微していった。とはいえ、西岩瀬港は、享保(1716〜1735)頃まで、加賀藩の新川郡年貢米の積出港として、また、富山藩の年貢米積出港、富山城下の外港として幕末まで機能していたという。
 また、貞享・元禄年間(1684〜1703)には、両流河口の2渡場の間に、御舟道と称する運河も掘られていたようだ。元禄9(1698)には御蔵が作られ、米・塩・唐津陶器を入れた倉庫が建ち並び、神通川を通じて富山木町(現在の松川といたち川の合流点付近。当時の神通川は蛇行して流れており、松川はその名残である)と結ばれ、川船が頻繁に神通川を上下した。
 一方、前述の利常の裁定により、西岩瀬と富山藩は、旧神通川から新神通川の中央まで漁場と土地を拡大し、逆に東岩瀬と加賀藩は失うことになった。以来、新旧2つの神通川の中央線に囲まれた部分では、地引網の権利や廃川地の開拓をめぐり論争が繰り返された。
 旧流の名残りは古川と名付けられ、現在、日本海石油と北電富山火力発電所の間を通って、富山湾に注いでいる。
■参考文献/富山市史 通史〈上〉、富山県史 通史編Ⅲ



①古川河口。突破口と呼ばれるコンクリート製の河口処理工がされており、海との境界は見えない。江戸時代後期、西岩瀬富山藩住民と東岩瀬加賀藩漁民との間で漁場をめぐって紛争が絶えず、ある時、加賀藩、富山藩両藩役人立会いの下、両者の申立を聞いて裁定することになった。東岩瀬漁民代表は両藩士が納得できる弁明ができたが、西岩瀬の長役(おさやく)を務める彦助はそれが十分にできなかった。富山藩士は面目が立たず、加賀藩士から恥辱を受けたので、大いに怒り、本家加賀藩に対する償いとして、古川の河原で彦助の首をはねたという。人々はその死を悲しみ、その河原を「彦助の河原」「彦助の浜」と呼んでいるという。②古川河口近くの浜辺。③国道415号線と交差する古川。④西岩瀬諏訪社の大けやき。幹まわりが10m近くもあり、高さは約30m。樹齢は1000年を超えるとされる。沖を航海する者の羅針盤として、また航海の安全を祈る聖樹として親しまれた。

 

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