130艘の仮舟橋

 今年5月号の『富山の風景』で江戸時代初期の神通川下流は、現在より西側を流れ、1659年の大氾濫で東側にも流れができ、二又川となり、1668年の洪水で、東側が本流となったという話をご紹介しました。
 さて、1635年に義務付けられた参勤交代の際、加賀藩主は、初めの頃は富山町の中心部を通る北陸街道を使っていたようですが、1639年に富山藩が加賀藩の支藩として成立し、1660年に富山町が名実共に富山藩の領地となった2年後の1662年からは、富山城下を避け、現在の射水市手崎の加茂社前交差点で、左折し、下村を経由して、神通川下流を渡り、東岩瀬を通り、魚津へ続く道を正規の加賀藩往還道に指定しました。
(当初、富山藩は百塚に新しい城を築く予定で、加賀藩領の富山町の富山城を借りていたが、その後百塚築城を断念し、領地交換で富山町を富山藩領とし、富山城を居城とした)
 その時に神通川を渡ったのが旧流の「草島の渡」(東岸は加賀藩の経営、西岸は富山藩の経営。草島小学校の西側付近)と、新流の「千原崎の渡」(加賀藩の経営。萩浦橋のやや上流付近)でした。なお、藩主の渡河は、初め仮舟橋を架設して行われたそうです。元禄11(1698)年の記録では、「草島の渡」には40艘、「千原崎の渡」には130艘の舟が、高岡の木町などの川西舟をはじめ東岩瀬など各浦方から集められ、総動員されたとのこと。しかし、この経費はほとんど浦方の負担とされただけでなく、漁業・海運の生業も滞り、重要な運輸機能を持つ河川交通が仮舟橋によって遮断されるという弊害まで伴ったので、明和年中(1764〜72)からは仮舟橋は廃止され、渡舟による渡河に変更されたということです。

 

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