ふるさと再発見 富山県ができるまで

私たちが住んでいる富山県。印象が薄い県とか、地味な県とか言われているが、そもそもどんな歴史があるのか? 今回はそれについて探ってみる。

 大化の改新(645年)の頃、北陸地方は新潟県も含めて越国(高志、古志)と呼ばれ、阿倍比羅夫(7世紀中期の日本の将軍)が越国守に任ぜられたこともあった。越国は大和朝廷の東北平定の基地の一つとして重要な役割を果たしていた。7世紀末、越前・越中・越後と分かれても、この役割は続いた。越中守の文献上の初出は、天平4年(732年)任命の田口年足。万葉集の選者として有名な大伴家持が赴任したのは天平18年(746年)。大伴氏は代々武将で、武をもって朝廷につかえた名族。律令政府の要職に多くの人材を送り込んでいた。家持は、天平勝宝3年(751年)に少納言に任ぜられるまでの満5年、越中に在任した。国府は現在の高岡市伏木古国府にあった。
 この頃、墾田の永代私有が認められた為、有力者が競って荘園を集めた。東大寺をはじめとした荘園は拡大の一途をたどり、公田は少なくなり、さらに豪族が荘官となって荘園の開発を進めた。
 中世の越中では、平氏全盛期には、平教盛・盛俊・業家らが相次いで越中国司となった。源義仲が京を目指すと、新川郡の宮崎氏、砺波郡の石黒氏がそれに呼応。義仲は倶利伽藍峠で平維盛の軍を破り京に攻め入ったが、義仲軍は京で不評を買い、京を追われ、源義経によって滅ぼされた。
 鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、義経追討を名目に諸国に守護を置き、勢力を拡大。越中の初代守護には重臣・比企能員が任ぜられた。承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた)後は執権北条泰時の弟である朝時とその一族名越氏が任にあたった。幕府滅亡に際し、名越時有は出羽・越後の倒幕軍に攻められ、妻子を奈呉の海に沈め放生津城で自害した。
 その後、天皇親政(天皇が自ら政治を行う)の復活をはかった建武政権は、越中国司に中院定清を任じたが、武家勢力を無視できず、土豪の出身といわれる普門利清を守護とした。が、武家政権を目指す足利尊氏の呼びかけで普門は中院を石動山(石川県中能登町)に滅ぼした。
 それから越中は中央の政情変化につれて揺れ、室町幕府3代将軍・足利義満が畠山基国を守護としてからは、越中の武士はその家臣団として統制に服した。畠山氏は、越中の他に、紀伊・河内・山城の守護も兼ね、室町幕府の管領ともなった為、ほとんど越中に在国しなかった。そこで、有力な家臣を守護代として統治させた。砺波郡は遊佐氏(本拠は蓮沼城/小矢部市)、新川郡は椎名氏(松倉城/魚津市)、射水・婦負二郡は執事の神保氏(放生津など/射水市)が支配した。神保氏は越中の守護代三氏の中で最も有力であった。もとは惟宗氏の出であるといい、鎌倉に出て畠山氏に仕えたが、畠山基国が越中を領する時に、入国したという。
 越中の守護は基国の後、子の満家、その子の持国が継いだ。しかし、持国には当初子がなく、弟・持富の子・政長を養子としたが、その後実子義就が生まれ、政長を廃嫡。政長は、神保長誠に担がれ、管領細川勝元を頼り、その後援を受け管領に就任。しかし、山名持豊(宗全)らが義就を擁立、政長は罷免された。これを不服として細川勝元を頼り、挙兵。応仁の乱のきっかけとなった。
 応仁の乱(1467年)では、10代将軍・足利義材(義稙)が神保氏を頼って放生津に入り、越中御所、又は越中公方といわれた。
 文亀元年(1501年)、長誠が死ぬと、子の慶宗が継いだ。越中守護の畠山尚順(政長の子)は河内にあり、越中は慶宗に任せたが、慶宗は尚順の意に背くことが多かったので、尚順は遊佐慶親や一向一揆衆など、主として砺波郡の諸豪の協力を求め、永正3年(1506年)、越後守護代の長尾能景に慶宗を討たせたが、かえって能景らを般若野で負死させた。
 その後、永正16年(1519年)、能景の子・長尾為景が軍を率いて越中に入り、慶宗の本拠・二上城(守山城/二上山)に迫った。翌年も為景は越中に入り新川郡を席巻し、新庄に陣を構えた。慶宗は、神通川を超えて太田荘に陣を張り、遊佐・椎名・土肥ら越中の諸豪と連合し対抗したが討ち死にし、椎名氏は降参した。翌大永元年(1521年)、尚順は為景を越中新川郡の守護代に任じ、椎名氏を代官として神保氏を抑えさせた。越中の東部は長尾氏の勢力圏に入った。守護畠山氏は尚順の子・稙長が継いだが、守護とは名ばかりで越中への勢威を失った。
 慶宗の死後、神保氏は落ちぶれたが、その子・長職が神保家の再興を図り、天文12年(1543年)に神通川を越えて新川郡に進出、富山城を築き、椎名氏の領地を侵略し始めた。椎名長常は敗北し、翌年、畠山氏の分家である能登畠山氏の仲裁で和睦。神保氏は常願寺川以西を併呑し、越中最大の勢力を築き上げた。
 永禄2年(1559年)、再び椎名氏へ圧迫を始めたため、 翌年、為景の跡を継いだ子・輝虎(上杉謙信)が越中に攻め入り、神保氏は敗北した。しかし、その後も甲斐の武田信玄と通謀して上杉・椎名氏と敵対したため、永禄5年(1562年)、2度にわたり謙信の再侵攻を受け、能登畠山氏の仲介で降伏した。長職は神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負二郡支配権は従来通り認められた。
 永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、義綱父子が重臣により追放され、長職は復帰に尽力するが果たせなかった。
 永禄11年(1568年)、武田信玄の調略を受けた椎名康胤が突如上杉家を離反し、一向一揆と結んで武田方に寝返った。謙信はこれに激怒し、大軍をもって越中に侵攻した。天正元年(1573年)、武田信玄が亡くなると、背後の脅威がなくなった謙信は、越中の一揆や土豪を一気に平定し、大部分を掌握。さらに進んで加賀のなかばを征服し、天正5年(1577年)には能登畠山氏を滅ぼし、能登をも手中におさめた。
 一方、織田信長は、はじめ謙信と同盟して信玄にあたったが、信玄の亡き後盟約を破り、浅井・朝倉を滅ぼし、天正2年(1574年)には一揆を破って加賀の南部にまで侵入し、上杉の勢力圏と接するまでになった。
 加賀まで進出した織田勢は、越前北ノ庄に柴田勝家、越前府中に佐々成政・前田利家、加賀の御幸塚に佐久間盛政を配した。天正6年(1578年)、謙信が急逝した。上杉方勢力が動揺するのに乗じて、信長は彼のもとに亡命していた神保長職の子・長住を越中に返し、旧勢力の挽回をはかり、神保氏の分家の氏張もこれを助けた。
 長住は、応援にきた美濃の斎藤利次とともに、上杉方の河田長親を富山南方の今泉や月岡野で破り、旧臣の中で復帰するものもあって富山城に入ることができた。しかし、神保氏の勢力では、なお強大な景勝(謙信の養子)の勢力には対抗しきれず、信長は天正8年(1580年)、家臣の佐々成政を派遣、長住に協力させた。
 成政は、氏張らの居城・守山城を拠点として、砺波郡の一向一揆を討ち、東の新川郡に上杉勢を追って越中の各地を転戦した。天正9年(1581年)、佐々・神保らが上洛していた留守を狙って松倉城の河田長親が小出城(富山市水橋)を攻めた。成政は急いで帰国し小出城を救出。信長は成政の功を賞し、越中の守護を命じた。一方、利家は、能登一国を与えられ、天正9年(1581年)、七尾城の城主となった。
 天正10年(1582年)、織田の家臣・柴田勝家が信長から越後の領有を命ぜられ、勝家は、佐々成政・前田利家とともに上杉攻略の準備を始めた。一方、上杉方は、魚津城(大町小学校あたり)、松倉城の二城を固め戦いに備えた。
 その頃、神保氏譜代の臣である神保覚広・小島職鎮・唐人親広らは、ひそかに上杉景勝に通じ、長住を富山城に幽閉。これを知った佐々・柴田勢は、魚津・松倉城を攻める兵の一部を割いて富山城を猛攻。覚広らは支えきれず、城を捨てて五箇山に逃げ込んだ。その後、成政が富山城に入った。
 天正10年6月、4ヶ月の籠城に耐えてきた魚津城は悲劇の落城を遂げた。その翌日、織田信長が京都・本能寺で明智光秀に攻められ自害した悲報が佐々の陣に届いた。(信長の長男・信忠も攻められ二条新御所で自害)。諸将は景勝攻略をいったん中止して陣容を固めることになった。前田利家は魚津の陣を引き払い、能登に向かい七尾城に入った。(同年、利家は、山城の七尾城から、港を臨む小山を縄張りして築城した小丸山城(七尾市)に拠点を移している。)
 その後、秀吉は信長の嫡孫・秀信(信忠の嫡男・三法師)を擁したが、信長の三男・信孝が柴田勝家とはかって秀吉を除こうとしたため、秀吉と勝家の抗争が表面化。利家・盛政・成政らは勝家側に立ったが、成政は在国して上杉勢に備えた。秀吉は、上杉景勝や瑞泉・勝興両寺とむすび、天正11年(1583年)北進し、越前の賤ヶ岳で盛政を破り、勝家を北ノ庄で自刃させたので、利家・成政は秀吉に降参した。成政は秀吉から越中守護の朱印状を受け、越中一国の領主となった。利家は合戦たけなわで突然撤退し、秀吉の勝利を決定づけたことから、能登国は安堵され、さらに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち石川・河北両郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に入った。
 その後、信長の二男・信雄が家康とともに秀吉打倒の兵を挙げた。成政・利家は信雄の要請を断り秀吉方に味方した。しかし、成政はその後、家康側に引き入れられた。一方では、前田家と婚儀の話を進め秀吉の味方のように取り繕った。ところが、富山城の茶坊主・養頓が前田方家臣に密告。成政は利家と表立って敵対することになった。成政は、能登羽咋の末森城を攻め能登と加賀の分断を図ったが、城主・奥村永福が利家の援軍到着まで城を守り、成功しなかった。その後、信雄が秀吉と講話を結んだという驚くべき情報が入る。成政は家康の意向を打診するとともに奮起を請わなければと、雪の立山ざら峠を越えて家康に会いに行ったが、すでに秀吉と和睦した後だった。天正13年(1585年)、秀吉が織田信雄を先鋒に利家軍を加えて10万の大軍を率いて越中に入った。黒河山(太閤山に改称)を経て、白鳥城に布陣し、富山城を圧迫した。成政は、頭を剃って降伏した。
 成政降伏後は、成政の所領のうち神通川の西3郡、婦負・射水・砺波郡が利長に与えられ、残りの新川郡はもとのまま成政に残された。天正15年、秀吉は成政を肥後(熊本)に栄転させ、新川郡は直轄地として利長にあずけた。文禄4年(1595年)、秀吉は新川郡も名実ともに前田氏に与え、秀頼の守護を頼んだ。
 利長は慶長3年(1598年)、利家隠退のあとを受けて加賀藩主となったが、関ヶ原の戦いで徳川方について働いた功により、正式に加・越・能3ヶ国120万石の領有を徳川氏により承認された。
 慶長10年、利長は家督を利常に譲り、金沢城から富山城に移るが、慶長14年(1609年)、いたち川近くから出火した火事で、富山城や周辺の町が火事でほぼ焼失したため、利長は一時魚津城に移った。その後、高山右近に設計させたといわれる高岡城(現在の高岡古城公園)に移り、慶長19年(1614年)に亡くなった。利長は前年に曹洞宗の法円寺を創建しており、ここが菩提寺となった。3代利常は、正保3年(1646年)利長の33回忌に、利長の院号にちなんで瑞龍寺と改称。新たに寺の建物の造営を行った(平成9年に仏殿などが国宝指定された)。


 寛永16年(1639年)、3代利常が加賀小松に隠退する時、幕府の厳しい監視の目をやわらげるため、加賀・越中・能登の120万石のうち、婦負郡6万石の他、下新川郡浦山辺、新川郡富山辺、加賀国能美郡の一部の計約10万石を次子利次に与えた。(富山藩の誕生。三子利治には大聖寺7万石を与えた。)なお、領地が分散して治めにくかったため、万治3年(1660年)、利次は加賀藩に届け出て、加賀藩と富山藩の領地を交換する許可を得て、エリアが婦負郡と新川郡の西部になったという経緯がある。
 その後、越中は、江戸幕府が崩壊するまで、加賀藩(加賀前田家)とその支藩である富山藩(富山前田家)が治めた。
 明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還が行われ、加賀藩は金沢藩となった。明治4年7月14日、廃藩置県が行われ、富山藩は富山県に、金沢藩は金沢県となった。同年11月20日には、婦負郡、新川郡、砺波郡は新川県となり、射水郡は七尾県に属することになった。その後、明治5年9月27日、越中のエリアは新川県になった。ところが、明治9年4月18日には、石川県に編入された。
 明治政府が当初から最も力を注いでいたのは、旧藩体制を打破して地方を完全に官治することであり、その一環であったのであろう。
 明治12年、石川県会が開会されたが、当初から加賀・越前出身者は道路改修を、越中側は河川の治水工事を急務として対立した。当時の越中選出議員の多くが豪農層で、農村が毎年の水害に悩まされていたことから当然の主張であった。明治14年に越前が石川県から分離したことが越中議員を刺激した。この年、旧十村(大庄屋)家の米沢紋三郎らを中心に分県運動が始まった。翌年、米沢らは呉東の豪農層を中心に越中改進党をつくり、その代表に選ばれ、夏に分県請願を決議。米沢はその委員長になった。明治15年9月26日、米沢は分県建白書を持って入善を出発。上京後、1ヶ月余待ってようやく岩倉具視以下政府高官に分県の必要を上申することができた。
 なお、分県建白は、米沢らだけではなく、砺波市小島生まれの石埼謙も東京府知事に行っている。
 明治16年5月9日、佐賀県・宮崎県・富山県三県の設置の太政官達が発せられ、元老院の検視と天皇の裁下をへて、6月4日内務省の告示によって16年7月1日富山県庁が開庁した。


 初代県知事には、国重正文が任命された。彼は萩藩士(山口県)の長男として生まれ、富山に赴任するまでの10年余を京都府知事のもとで累進。彼は水害克服のため全力を尽くし、近代医療の導入にも献身。富山県の石川からの真の独立は教育水準を上げるにあるとして、自ら実利的カリキュラムを作成し、児童の就学率の向上にも努めた。明治18年には、財政難の中、富山県中学校を開校し、これが中等教育機関の始まりとなった。余談だが、明治19年から明治21年4月まで、滝廉太郎の父・滝吉弘が、富山県書記官(副知事)として、国重県政を支えた。


参考文献/「越中から富山へ」(高井進著 山川出版社)、「越中の明治維新」(高井進著 桂新書2)、「明治・大正・昭和の郷土史18 富山県」(高井進編 昌平社)、「富山県の歴史」(坂井誠一著 山川出版社)、「富山県の歴史散歩」(富山県歴史散歩研究会 山川出版社)、「とやま近代化ものがたり」(富山近代史研究会編 高井進著 北日本新聞社)、「佐々成政〈悲運の知将〉の実像」(遠藤和子著 サイマル出版会)、富山市郷土博物館「博物館だより」、Wikipedia、他

※歴代の富山県知事:R2.11から、新田八朗氏。

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