「月刊グッドラック」による松川を活かした“水の都・とやま”再生への挑戦

・第23回日本水大賞「審査部会特別賞」 受賞・
「月刊グッドラック」による松川を活かした“水の都・とやま”再生への挑戦
中村 孝一

 第23回日本水大賞(主催/日本水大賞委員会、国土交通省)の受賞者が発表され、弊誌発行人・中村孝一の【「月刊グッドラック」による松川を活かした〝水の都・とやま〟再生への挑戦】が「審査部会特別賞」を受賞した。今回は、受賞した活動内容について特集する。

 

 

「月刊グッドラック」と松川

 1970年、富山市中心部を流れる松川はドブ臭に覆われ、死に瀕していましたが、なんと経済界から、ある大論争が巻き起こっていました。生活排水などで汚染され、ドブ臭がする松川をコンクリートで蓋をして、駐車場にしようという無謀な計画が発表されたのです。
 私は1944年8月に、富山城の近くで生まれ、翌年、B29による富山大空襲の際は、母親に背負われ、兄弟と一緒に近くの松川に浮かぶ笹舟に避難しました。そのおかげで、市中心部の99%以上が消失し、3000人を超える人々が亡くなるという大被害でしたが、私たち家族は奇跡的に助かりました。しかし、私たちの命を救ってくれたこの川が、経済発展の中で人々に忘れられ、まさに死に瀕していたのです。
 「川はそこに住む人々の心を映し出す」と言われます。まさに、人々の荒廃した心が松川に反映されていたのです。
 私は少年時代、ボーイスカウトに入隊し、精神面の大切さを学んでいたこともあり、今、日本にとって大切なのは、物質面とのバランスのとれた社会を実現することにある、と思っていました。そのためには「心の糧を与えてくれる雑誌を出すことだ」と決意し、1977年11月に月刊誌「グッドラックマガジン」を創刊することとなりました。
 タウン誌として街の活性化にも力を入れるようになり、市民に松川がこのままで良いのかを問い、また隣接する富山城址公園の理想の姿について話し合うため、座談会を開きました。すると、「友達が遊びにきても連れて行くところがない!」との切実な声を耳にし、悔しい思いをしている市民が多いことを知りました。
 自分たちの街に誇りを持てるような水辺空間を、市内中心部に創り出せないだろうか——。このことが、〝水の都とやま〟再生に向けて動き出す大きなきっかけとなったのです。

 


▲1994(平成6)年に就航した大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」。世界中の遊覧船を研究することで誕生した。

 

“水の都”の歴史を活かし、富山のシンボルに

 松川の歴史を調べていくと、かつて〝水の都〟として賑わっていた富山の姿が浮かび上がってきました。戦国時代、越中最大の河川・神通川を外堀に富山城が築かれ、富山は城下町として発展しました。江戸時代になると、64艘の笹舟をつないだ舟橋(日本三大舟橋の一つ)がかけられた神通川は、300隻もの帆船や笹舟が行き交う最大の通商路として賑わっていました。
 しかし、一方では大洪水を何度も引き起こしていたことから、明治の中頃には神通川の蛇行部分を直線でつなぐ「馳越線工事」が行われたのです。その結果、神通川は現在のように真っすぐに流れるようになり、後世に往時の神通川の川筋を伝えるために残されたのが現在の松川でした。私は戦後、立山連峰のふもとの隣町に疎開して育ったため、富山市の歴史をまったく知らなかったわけです。
 そんなある日、いつものように編集部の近くを流れる松川河畔に散歩に出かけました。新緑の頃で、松川河畔の500本ほど植えられた桜の木が緑のトンネルをつくり出していました。その時、子どもの頃、ベニスの風景画を見て虜になったことを思い出しました。松川にも遊覧船がゴンドラのようにロマンチックに行き交えば、帆船や笹舟が行き交っていた富山の歴史的遺産が蘇るのではないか、そう思いながら散歩している私の目の前を、神通川の漁師さんが笹舟に子どもを2人乗せて通りかかりました。私は思わず「船頭さん!私も乗せてもらえませんか?」と大声で叫んでいました。船に乗ってわかったのですが、松川の水面は道路レベルから3メートル程低くなっているため、そこは峡谷に入り込んだような別世界となっていました。
 (松川を美しくして遊覧船が行き交えば、市民の誇りがよみがえるのでは……)
 こうして〝東洋のベニス・水の都とやま〟への夢に向かって、挑戦が始まったのです。

 

富山県河川課との対立、そして遊覧船会社を設立

 神通川が産み落とした松川を中心に〝東洋のベニス、水の都とやま”を創ろう、と夢が広がり、「グッドラック」で経済界の方々や市民を招いて座談会を重ねました。そんな中、松川を管理している県の河川課や、出先の土木センターに相談すると、「遊覧船など前例がない!」と猛反対されたのです。それでもあきらめずに一人一人の職員に計画を説明に回ると、「関係部署に集まってもらい、そこであなたの計画を話されたら?」との好意的な声に励まされ、会合を開催することができました。
 その後、協議を重ねた結果、合意を得ることができ、1987年8月に、パリから日本にやって来ていたファッション・コーディネーターのフランソワーズ・モレシャン氏を招いて、松川で初の遊覧船の試乗会を開催しました。市民は新しい観光名所が誕生することを知って、大喜びでした。私は出版社をやっていましたので、別会社をつくって、どなたかに社長を引き受けてもらおうと思っていましたが、「情熱を持ったものがやらないと成功しない」と説得され、結局、私がやらざるを得なくなりました。
 さっそく、造船会社に遊覧船を5隻注文しましたが、河川課から「大雨が降った時、遊覧船が川の流れを妨げる可能性がある」、と待ったがかかりました。
 しかし、ここで引き下がるわけにはいきません。何度も河川課と協議を重ねた結果、「シーズンオフになったら、陸上に船を上げる」ことを条件に、1988年3月、どうにか松川遊覧船の運航をスタートすることができました。


▲1993(平成5)年、松川の川底にたまった泥を取り除くため、船頭たちと浚渫作業を行う。(右端が中村孝一)

 

松川遊覧船運航上の課題

 4月になると、「日本さくら名所100選」選定の松川の桜のトンネルの中を遊覧船で巡ることができるということで、大評判になりました。しかし、桜シーズンはせいぜい2週間ほど、桜が散ってしまうと、乗客がガタンと減ってしまい、開店休業の状態が続き、1年の終わりには赤字になってしまいました。
 しかも、夏になると水位が下がり、ところどころ浅瀬が顔を出します。神通川の漁師さんに船頭をお願いしているわけですが、そういうプロの方でも浅瀬に乗り上げて、船から降りて船を脱出させ、深いところまで押していってまた乗るといった有様でした。これでは観光客も楽しくありません。船頭10人に声をかけて、人力で浚渫することにしました。というのは、県の河川課にお願いしても、民間の事業だと言って取り合ってくれないのです。
 その後、毎日のように手作業での浚渫を続けていく中、私はとうとう無理がたたって歩けなくなってしまいました。なんと、椎間板ヘルニアを発症していたのです。緊急手術を行って、間一髪で成功し、再び歩けるようになりました。このことを知った土木センターの所長が心動かされ、ついに松川にブルドーザーを導入、本格的に浚渫を開始するところまで漕ぎ着けることができました。

駅舎、リバー劇場の完成
 1992年には、乗客の待合室が必要となり、遊覧船駅舎「松川茶屋」が城址公園内に完成。また、1994年春にはサンアントニオを視察された中沖知事からの要請で、ディナークルーズのできる大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」(定員72名)が就航。これによって、バスツアーの団体客にも対応できるようになったのです。
 そして、2000年には、松川茶屋対岸にリバー劇場も完成しました。これは河畔を人々が集って楽しめる場所にしよう、と県に要請していたもので、現在は毎年開催される「リバーフェスタ」で吹奏楽やギター、胡弓、箏の演奏、フラダンスなどが披露され、対岸の観客席や遊覧船からも楽しめると、大変好評を得ています。

 

「川と街づくり国際フォーラム」開催とサンアントニオ市訪問

 2003年9月、神通川直線化100周年記念「リバーフェスタ2003年・川と街づくり国際フォーラム」を開催(後援/国土交通省、富山県、富山市)。1985年、全米ナンバーワンの人気都市・サンアントニオから、川が街の中心を流れていて環境が似ていることを理由に、富山市へ姉妹都市の申込みがありました。その縁で、公園管理者のリチャード・ハード氏に基調講演をお願いしました。  
 「夢のリバーウォークはこうして誕生した」とのタイトルで講演を行ったハード氏は、そのあとで松川を視察。「実現の可能性は十分ある」と激励され、大変心強く思いました。その年の11月、こうした盛り上がりを活かすため、私の案内で県議、市議、元行政マン、総勢19名でサンアントニオ市を視察。〝アメリカのベニス〟をつくることを目標に掲げただけあって賑わう川の街は、まるでテーマパークのようで、一同はその素晴らしさに大感激でした。

 

松川茶屋に川べりのカフェテラス完成

 2005年4月初め、松川茶屋と松川の間の護岸を一体にした階段状の「カフェテラス」が完成しました。このカフェテラスはサンアントニオのリバーウォークを参考にしたもので、川を眺めながら飲食を楽しめる、潤いとやすらぎのスペースとなっています。
 2015年3月 北陸新幹線が開業し、市内観光の目玉として松川遊覧船が注目を集めました。4月の花見シーズンには、松川遊覧船の待ち時間が最大1時間半になるなど大変な人気で、日本全国はもちろん、世界各国から観光客が訪れるようになりました。特に台湾では、「桜のトンネルを遊覧船でくぐれるのは日本広しといえども松川遊覧船だけ」と話題になっており、「日本の松川遊覧船に乗ってから死ね!」とまで言われているそうです。


▲2005(平成17)年に完成した松川べりの階段状のカフェテラスでくつろぐ人々。松川遊覧船は富山のシンボルとなった。

 

「〝水の都とやま〟推進協議会」を発足

 さらに、松川遊覧船は2016年にはJR東日本の「桜を見に行こう!」のポスターにも掲載された他、富山市が松川遊覧船をデザインした「シティ・フラッグ」を制作。ついに富山市のシンボルとして採用したのです。このように、松川遊覧船は市民が誇りを持てる街〝水の都とやま〟にとって重要な存在となっています。
 2017年5月、〝東洋のベニス・水の都とやま〟の環境整備をさらに進めるため、有志を募り「〝水の都とやま〟推進協議会」を発足させました。
 アメリカのサンアントニオは、〝アメリカのベニス〟を目指し、砂漠の中にベニスとはまた違った、〝川の街〟を創造することに成功しました。富山も、北アルプス立山連峰を背景に〝東洋のベニス〟を目指すことで、ベニスともサンアントニオとも違った世界に一つだけしかない、ユニークな〝川の街〟の創造を目指しています。


▲多くの花見客で賑わう春の松川遊覧船。

 

「月刊グッドラック」が目指すもの

 私が43年前、「グッドラックマガジン」を創刊した時、読者に「夢見ること」をやめないよう訴えました。理想を高く掲げ、どんな障害にも勇気を持って立ち向かい、希望を失わず、いつも自分自身を励まし、向上心を持ち続けるよう、訴えてきました。
 〝水の都とやま〟再生への挑戦は、この編集方針を具現化するテーマでもあり、根幹を成す事業となっています。これがいつ完成するかわかりませんが、それでも私たちは、〝夢〟に向かって挑戦し続け、その過程を楽しみたいと思っています。

 


 

第23回水大賞受賞 祝辞


富山県知事 新田 八朗

 第23回日本水大賞「審査部会特別賞」を受賞されました中村孝一氏に心からお祝い申し上げます。
 中村様は、「川は都市を映す鏡であり、そこに住む人の心をも映し出す」とのお考えのもと、富山市中心部を流れる「松川」の水環境の改善に向けて、住民の意識を内面から豊かにしようと月刊誌を発刊するなど、これまで40年以上にわたり、〝水の都・とやま〟再生への挑戦に取り組んでこられました。
 月刊誌による情報発信をはじめ、住民との座談会の開催、遊覧船の運航・松川茶屋の運営、水辺を活用したイベントの開催など、熱意あふれる数々の取組みが実を結び、今や松川は、人々で賑わう、美しい水辺空間となっています。
 このたびのご受賞は、中村様の長年にわたる取組みと、その成果が高く評価されたものであり、大変嬉しく思います。また、中村様の熱意とご努力に、改めて心から敬意を表します。
 中村様には、今回の受賞を契機として、今後ますますご活躍されますことを祈念いたしまして、お祝いの言葉といたします。

文/第23回日本水大賞受賞活動集 
受賞者へのお祝いの言葉(令和3年6月)より


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