旧制富山高校(富山大学の前身)創設に力を尽くした 馬場はる


▲馬場記念公園入口


▲馬場はる刀自の胸像

 路面電車南北接続が完成し、富山市中心部から馬場記念公園(蓮町駅すぐそば)へ一本で行けるようになった。「馬場」という名前は、大正時代に地元の素封家(財産がある人)である馬場はる刀自*からの寄付を受け、この地に旧制富山高校(富山大学の前身)が開設されたことに由来する。今回は、馬場はるさんについて少し詳しくみていきたい。
 馬場はるは、1886年(明治19年)2月22日、下新川郡泊町(現在の朝日町泊)の裕福な商家・小沢家に生まれた。小沢家の厳しい家訓「粗食に甘んじ、絹物を身にまとわず、礼儀を重んずる」のもとに育てられた。16歳の時、下新川郡東岩瀬町(現在の富山市東岩瀬)で手広く海運業を営む馬場道久と結婚。しかし、34歳の時、夫・道久が40歳の若さで亡くなり、一男三女の子ども達の養育に苦労が始まる。
 夫が亡くなって4回目の祥月命日(亡くなった同じ月日)の日である1923年(大正12年)5月15日、はるは、時の富山県知事・伊東喜八郎に「寄付願」を提出した。それには、皇太子殿下(後の昭和天皇)のご成婚奉祝記念事業として7年制高等学校設立を願い、100万円を寄付するとあった。
 当時、富山県はまだ教育後進県で、県内の高等教育機関では富山薬学専門学校があるのみ。政府は大正7年に高等学校令を改正し、7年制高等学校の導入を決定していた。7年制高校とは中学校(旧制)の課程をも併せ持った中・高一貫制の高校で、最初の4年間を中学校教育課程(尋常科)で学び、その後3年間を高等学校教育課程(高等科)で学ぶというもの。当時、7年制高校は、全国で3校(官立)しか設けられていなかった。はるは、その7年制高校の設立を願い出た。
 高等学校創設のきっかけは、長男・正治が1923年(大正12年)県立富山中学を卒業して慶応義塾に入学した際に、正治の受験勉強の姿を目の当たりにしたためともいわれる。「県内にも高校があればいいのに」と考えたのは、はるばかりではなく、多くの県民の願いでもあったという。日本全体で高校が少なく、入学試験はとても難しかったのである。
 さて、100万円を現在の貨幣価値に換算すると、いくらぐらいになるか。諸説あるようだが、100億円から150億円に相当するといわれる(馬場家の展示では、10〜20億円程度)。ちなみに、大正12年度の富山県の歳出決算額は、計653万円強で、うち教育関係費は111万円強であった。
 旧制富山高等学校は、はるが開校資金の寄付を願い出てから11カ月程経った1924年(大正13年)4月1日、上新川郡大広田村(現在の富山市蓮町)の地に開校した。総敷地面積1万7454坪。この敷地は東岩瀬5大家の一つ、米田家の当主・米田元吉郎が寄贈した。また、同じく東岩瀬の犬島宗左衛門が学生寮『三計塾』を建設・寄贈した。
 寄付は開校した後も続けられ、合計161万5000円に達したという。その追加された寄付の中に、「ヘルン文庫」購入費がある。これは、初代校長の南日恒太郎(英語学者で英語教育の第一人者として広く知られた)の実弟で、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲=の研究者―田部隆次の斡旋によるもので、計2435冊(晩年の手書き原稿1200枚も含む)。
 旧制富山高等学校は、戦後の1950年(昭和25年)に閉校して新生・富山大学文理学部に引き継がれるまでに、3793人の卒業生を送り出した。
 2017年3月には、1962年に校舎が移転するまで公園内にあった図書館「小泉八雲図書館(ヘルン文庫)」(設計/山口文象)の外観(白色漆喰と黒の切妻屋根)をモチーフに設計した富山市立北部児童館が開館。小泉八雲の足跡などのパネルが展示されている。

【参考文献】『富山県を築いた人びと』(富山社会科教育研究会編、旺文社)、『実録 越中魂』(青野豊作著、北日本新聞社)、Wikipedia、ほか

 

刀自(とじ)…年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称

 

 

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