グッドラックとやま 2025 街づくりキャンペーン 楽聖・滝廉太郎を育んだ富山 富山城と『荒城の月』

元・富山県富山土木事務所長 元・富山県立山カルデラ砂防博物館長  今井 清隆 氏 × 月刊グッドラックとやま発行人 中村 孝一

 多感な少年時代の約2年間を富山で過ごした、滝廉太郎。当時、彼は富山城址内にあった小学校へ通い、自然に恵まれた風土の中で感性を育んだ。
彼の代表作の一つ『荒城の月』は、富山城の栄枯盛衰の歴史が重なる名曲であり、富山ゆかりの作曲家として、県民・市民の意識を高めていくことが望まれる。

写真/富山城址公園の松川茶屋内にある滝廉太郎記念館

富山ゆかりの作曲家・滝廉太郎と『荒城の月』

中村 タウン誌として、富山の歴史や文化を調べていると、滝廉太郎という日本を代表する作曲家が、お父さんの仕事の関係で富山におられたことがわかりました。これまで富山城址公園内の松川茶屋に滝廉太郎記念館を設置したり、地元の音楽家や高校生とコンサートを開催したりと顕彰活動を行なっています。

今井 滝廉太郎が富山で過ごしたのは、小学校時代の約2年間でしたね。

中村 ええ。7歳から9歳にかけてです。けれど、富山では顕彰活動を一切行なってきていなかったんです。以前、富山県の総務部長もされた郷土史家の八尾正治さんが、ある大手の建設会社の社内報に富山の歴史について書いてほしいと言われ、滝廉太郎について書かれたそうです。そのことがきっかけで、昭和53(1978)年6月に富山の九州人会・おきよ会が発起人となって、滝廉太郎の通っていた小学校跡地に少年像を建立されたんです。経済界では長崎の離島出身だった、当時の不二越の井村荒喜社長も入っておられます。

今井 そうですか。八尾さんの寄稿文がきっかけなんですね。

中村 八尾さんは富山城が『荒城の月』のモデルになったのではないかとも言及しておられます。

今井 作詞は土井晩翠さんですね。

中村 はい、昭和62(1987)年に仙台出身の山田野理夫さんという小説家が、『荒城の月―土井晩翠と滝廉太郎』という本を出版されました。こちらの本は『荒城の月』誕生のエピソードが中心になっていて、富山での出来事もちゃんと入っているんです。

今井 滝廉太郎が12歳から2年半ほどいた大分県竹田の岡城が、『荒城の月』の曲のモデルになったのではと、それまでは通説のように言われてきていましたね。

▼通っていた附属小学校跡に建つ滝廉太郎の少年像(富山市丸の内)。


▼少年像の台座には、発起人として九州人会の人々の名が連ねられてある。

九州人の誇りとして建立された少年像

中村 昭和63(1988)年1月29日に竹田市の観光課を訪問し、課長にお会いした時のこと。なんと、滝廉太郎の少年像の除幕式に市長代理で富山へいらっしゃった方だったんです。その方が、「九州人は滝廉太郎を日本を代表する作曲家として非常に誇りにしているけれど、富山では違うんですね。当時の富山市長が、主催者ではなく来賓代表で挨拶されたのにはビックリしました。東京で生まれた滝廉太郎が、少年時代を過ごした富山も、大分県竹田も、四捨五入すればどちらも2年なのに!」と言われたんですね。その時、「富山の方は、日本を代表する天才音楽家の価値がわかられないのですか?」と言われたようで、とても恥ずかしくなりました。

『荒城の月』の詞のイメージとも重なる富山城の歴史

今井 当時からあまり意識されていなかったんですね。『荒城の月』については滝廉太郎も2年間は神通川沿いにあった小学校に通っていた事実があるので、もっとアピールしていくべきですね。
 『荒城の月』の物悲しい旋律というのは、明治の初めということもあり滝廉太郎が少年時代に見た、取り壊された富山城、廃城になった富山城……その荒れ果てた姿をイメージして、悲しげな旋律になったのではないかと思うんです。土井晩翠は、父母から聞かされてきた会津戦争で敗れ落ちた鶴ヶ城をモデルに作詞したと言われていますから、詞のイメージともぴったりなんですね。

中村 実際に岡城を見に行きましたが、「島津の大軍に攻められたが、落城することのなかった〝難攻不落の城〟」と書いてありました。作詞した土井晩翠さんが、会津鶴ヶ城が破れていった悲しい歴史をおじいちゃんやお父さんの膝の上で聞きながら育ったという話と全く対照的で、岡城には破れた城というイメージは全くないですよね。

今井 そうですね。

中村 滝廉太郎は岡城をモデルに『古城』という詞を書いているんですが、年月を経て古くなった城のイメージで、敗れた城の悲哀はないんです。

富山城は「古城」ではなく「荒城」

今井 「荒城」は荒れ果てた城のことですからね。

中村 さらに富山城には早百合姫伝説という悲しい伝説が伝わっていますしね。

今井 あれは佐々成政を貶めようとして作られた話とも言われていますね。

中村 当時は芝居小屋があって、早百合姫が亡霊になって成政の前に現れる絵が飾られていたそうです。廉太郎のお父さんは芝居が好きだったので、家族と一緒に見に行っていたと思われるのです。すると富山城の悲惨な歴史を、廉太郎が知っていたことになります。

今井 富山城の歴史は悲惨ですからね。

中村 富山城はまさに「荒城」という言葉にぴったりだったのでしょうね。以前、座談会に今の新田八朗知事のお父上で、当時は日本海ガス社長の新田嗣治朗さんにいらしていただいた折、日本にはその当時まで「古城」という言葉はあったけど、「荒城」はなかったはずと。晩翠さんの提案で文部省がこのタイトルを付けて、初めて〝荒れた城〟という意味の「荒城」という言葉が生まれたのではないかと仰っておられましたね。

今井 富山城は「荒城」という言葉がぴったりだと思いますよ。荒れていて悲惨なお城を見ていると、子供心にどう思うかというところですよね。

中村 その時の歴史も調べると、今の総曲輪のところは全部外堀で、それを埋め立てる時に〝砂持ち奉仕〟という荷車やリヤカーに砂をのせて埋め立てるのを市民が協力したのですが、廉太郎が富山にいたちょうど2年の間に小学校もそれに協力していて、廉太郎もその1人に入っているんです。

今井 江戸時代が終わって廃城になり、解体されていった時代ですからね。

中村 富山城の歴史を知れば、『荒城の月』と繋がってくるわけです。滝廉太郎が富山ゆかりの偉人であることをもっと知っていただくために、『滝廉太郎ミュージアム』を作ったらどうかとの提案もお聞きしていますし、今後さらに顕彰活動が盛り上がればと思います。本日は、ありがとうございました。

▲明治6年、明治政府により廃城令が出され、本格的に解体されることとなった当時の富山城址。滝廉太郎が富山に住んでいた頃は堀の埋め立てなど、城址の大規模な市街地化が進められた。
 (「市街見取全図 明治18年」 富山市郷土博物館所蔵)

― 滝廉太郎  年表 ―

1879(明治12)年 8月24日
 東京都芝区南佐久間町に生まれる。

1882(同15)年 11月 
 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。

1886(同19)年
 8月 父が富山県小書記官となり、富山市に転居。
 総曲輪(現在の丸の内)の官舎に居住。
 9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)

1887(同20)年 2月 
父が富山県知事代理となる。

1888(同21)年
 4月 父が非職を命じられる。
 5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。

1889(同22)年 3月
 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)

1890(同23)年 5月 
 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。

1891(同24)年
 11月 父が大分県直入郡長に転じる。
 12月 一家、豊後竹田へ転居。

1894(同27)年
 5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
 9月 東京音楽学校(予科)へ入学。

1895(同28)年 9月 
 同校本科へ進学。

1898(同31)年 7月 
 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。

1899(同32)年 9月 
 音楽学校嘱託となる。(20歳)

1900(同33)年 6月 
 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。
 この年、「荒城の月」、「花」を含む組曲 「四季」 、「箱根八里」 、「お正月」など、多数作曲。

1901(同34)年
 4月 ドイツ留学へ横浜港から出帆。
 10月 ライプチヒ王立音学院入学。
 12月 肺結核を悪化させ聖ヤコブ病院入院。

1902(同35)年 10月 
 帰国命令により、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。

1903(同36)年 6月29日 
 病死。 (23歳10カ月)

『荒城の月』 作詞/土井晩翠

一、春高楼の花の宴
  めぐる盃かげさして
  千代の松が枝わけ出でし
  むかしの光いまいずこ

二、秋陣営の霜の色
  鳴きゆく雁の数見せて
  植うるつるぎに照りそいし
  むかしの光いまいずこ

三、いま荒城の夜半の月
  変わらぬ光たがためぞ
  垣に残るはただかづら
  松に歌うはただあらし

四、天上影はかわらねど
  栄枯は移る世の姿
  写さんとてか今もなお
  ああ荒城の夜半の月

富山城と『荒城の月』の関わりについて

 「城内の官舎から学校までは僅かの距離で、廉太郎はこの城跡と学校を中心に1年8カ月の富山生活を送ったわけである。
 後に作曲した『荒城の月』の最初のイメージはこの富山城址であったのかもしれない」
(『滝廉太郎の生涯』堀正三著 いずみ出版 昭和49年)


 「…『荒城の月』の曲想をはぐくんだのは、岡城址だったかも知れない。しかし、私は、最初のイメージは幼き日を過ごした富山城跡に違いないと信ずる。そんなことから、富山城跡にも〝荒城の月の碑〟があってもいいのではなかろうか」
(『荒城の月ととやま』八尾正治〈社内誌への寄稿文〉 昭和51年)


 「にぎやかな東京(横浜)から来たら富山の城下町はさびしいの一言に尽きる。しばしば近くにある富山城跡(すでに公園となっている)へ散歩に出かけたり、城壁の上へのぼって立山を仰いだり、市街を見渡したりしたことであろう。そんなことを考えると、廉太郎が『荒城の月』の歌に向かった時、富山城跡の石垣が青い月光にぬれていたイメージが絶対に浮かばぬと誰が言い切れるか。筆者は詩人の一人としてこれを否定できない」
(『総曲輪懐古館』八尾正治・水間直二・山岸曙光著 巧玄選書 昭和54年 ※山岸曙光氏の文章より)

富山と大分での主な滝廉太郎顕彰活動

1978(昭和53)年6月 富山県九州人会が、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山市丸の内1丁目の堺捨旅館(現・マンション堺捨)前に、滝廉太郎の少年像を建立。

1988(同63)年
 1月 中村孝一が大分県竹田市を訪問、岡城を視察。
 同年4月 松川遊覧船の就航にあたり、松川(当時は神通川)べりの尋常小学校へ通っていた滝廉太郎にちなみ、船を「滝廉太郎丸」、「荒城の月丸」と命名。テーマ曲に『荒城の月』『花』などを選ぶ。

1989(平成元)年
 1月 『グッドラックとやま』発行人・中村孝一が、〝『荒城の月』のモデルは富山城だ〟の新説を『グッドラックとやま』2月号に発表。全国のマスコミにも大きく取り上げられる。
 同年9月 全国タウン誌会議富山大会で、創作劇『荒城の月と富山城』を上演。参加者から「埋もれていた宝の発見」と評価を得る。

1990年(同2年)11月 「荒城の月のモデルは富山城」との説が、小学館発行「日本大百科全書」に掲載されることが決定。

1991(同3)年2月 中村孝一が富山県内の文化・経済界および行政関係者に呼びかけ、「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」を設立。(委員長/新田嗣治朗氏)

1992(同4)年4月 大分県竹田市に「滝廉太郎記念館」オープン。

1992(同4)年8月 富山県民会館にて「第1回滝廉太郎祭」を開催(以後、毎年開催)。〝荒城の月誕生のロマンを探る"と題し、シンポジウムを行う。『荒城の月』の詞のモデル・鶴ヶ城のあるタウン誌『会津嶺』とグッドラックが姉妹提携。

1993(同5)年9月 没後90年に富山市丸の内にある滝廉太郎の母校、富山県尋常師範学校附属小学校跡地に「滝廉太郎記念館」オープン。この時、NHKの全国放送「列島ニュース」で紹介される。

1994(同6)年4月 松川に大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」が就航。

1997(同9)年9月 NHK大分から取材。

1997年(同9)年10月 中村孝一がNHK大分で、「滝廉太郎特集」のテレビ番組に出演。竹田と富山の記念館同士の姉妹提携を提案。

2002(同14)年11月 中村孝一が大分県日出町の「滝廉太郎記念講演会」で講演。

2003(同15)年9月 滝廉太郎の没後100年と神通川直線化100年を記念し、松川べりにて「リバーフェスタ」「川と街づくり国際フォーラム」を開催。"水と音楽の都"を目指す。

2011(同23)年3月 『グッドラックとやま』創刊400号を記念し、特集「滝廉太郎来富125周年記念 滝廉太郎と富山」を掲載。

2015(同27)年6月 「滝廉太郎研究会」(浅岡節夫会長)が発足。

2022(令和4)年4月 富山市内の小学生に配布される社会科教科書副読本に「滝廉太郎記念館」が掲載される。

2023(同5)年6月 没後120年を記念し、住居跡に案内看板を設置。2025(同 7)年6月 「滝廉太郎研究会」設立10周年記念コンサート開催。

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