「荒城の月」の歌詞にある”植うる剣”とは?

 明治16年5月に誕生したばかりの富山県の書記官(今の副知事に相当)となり明治19年8月から富山城跡の旧本丸御殿を利用した県庁に赴任してきた父にともなって、富山県尋常師範学校付属小学校1年の途中から3年の初め頃までの約2年弱を富山市中心部で過ごした滝廉太郎。旧城内三ノ丸・赤蔵跡にあった小学校で学んでいる。なお、その場所は城址公園が城跡の約6分の1に縮小したため、城址公園内ではなく富山市丸の内1丁目の「マンション堺捨」附近に当たり、現在は正面に少年像がある。
 明治21年4月、父が非職になったため家族で富山を離れ、東京、大分市、竹田市で学んだ後、音楽学校受験準備のため東京の私塾・芝唱歌会を経て、東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)へ進んだ。
 そして、明治34年に東京音楽学校が当時の中学生向けに編纂した唱歌集『中学唱歌』の懸賞募集に、3曲応募(1人3曲まで)し、3曲とも選ばれた。それが、「箱根八里」「荒城の月」「豊太閤」である。
 「荒城の月」の歌詞は、土井晩翠が作詞した。滝廉太郎はこの歌詞を読み、曲想を膨らませたことになる。そのイメージの中には、少年時代を過ごした富山城もあったに違いない、と言われている。
 今、皆さんがこの歌詞を読んで、自分ならどんな曲をつけるか?そんな視点から、この歌詞について今一度、見ていきたいと思う。

『荒城の月』

一 春高楼の花の宴
  巡る盃影さして
  千代の松が枝分け出でし
  昔の光今いづこ
二 秋陣営の霜の色
  鳴きゆく雁の数見せて
  植うる剣に照り沿ひし
  昔の光今いづこ
三 今荒城の夜半の月
  変はらぬ光誰がためぞ
  垣に残るはただ葛
  松に歌ふはただ嵐
四 天上影は変はらねど
  栄枯は移る世の姿
  映さむとてか今も尚
  ああ荒城の夜半の月 

 この歌詞の中で特に意味がつかみにくいのは、おそらく二番ではないだろうか。
 ウィキペディアによると、土井晩翠が尊敬した上杉謙信(景虎)が七尾城を攻略した際、本陣の石動山城で勝利の確信から家郷を振り返り武功を名月に詠んだとされる、『九月十三夜陣中作』をオマージュしたものであるという。

『九月十三夜陣中作』

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫あれ家郷の遠征を憶う

 なお、土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、それぞれ歌碑が設置されている。
 また、晩翠は謙信の足跡を辿って、富山城、石川県の石動山城、七尾城を巡ったそうだ。
 さて、二番の中でも「植うる剣に照り沿ひし」という部分をどう理解するか、意見が分かれるのではないだろうか。
 「Yahoo!知恵袋」では、『「植うる剣」とは「霜柱」を意味し、晩秋より冬にかけて「霜柱」地面より露出し、白く光った光景を「植うる剣」として、かつて伊達正宗が治めていた仙台の地での戦乱の世の遠い昔の時代へ思いをはせている詩だと思います』という投稿がベストアンサーに選ばれている。
 また、「音を伝える和邦人 音生」というサイトでは、『城内の地に突き刺さった刀など衰退の様子』と説明されている。
 一方、「教えて!goo」では、『各地より集まった軍勢が城の見える広場に集まり、暁の出陣に備え城主の閲兵と気勢を挙げるため、整列し鞘を払った槍をたて、また太刀を抜いて空にかざし、その剣先が光るさまでしょう』という投稿がベストアンサーになっている。
 また、「レファレンス協同データベース」でも、『「角川古語大辞典 第1巻」には、「う・う【植・殖】」は「剣など棒状のものを土などに立てることを、比喩的にいう」とあります。また、『近代詩鑑賞辞典』などによれば、「植うるつるぎ」は「林立する刀槍の形容」、「陣のまわりに防備として剣をさかさに植えた」等、の記載があります』と回答している。
 皆さんは、この部分をどのように読まれますか?


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