戦後70年特別企画 戦災からよみがえった富山 富山大空襲を乗り越えて
空襲で焼け野原になった富山市中心部。本町から西町方面を望む。 (撮影/谷田忠雄)
富山大空襲から、70年の月日が流れようとしている。
戦争を知る世代は確実に減少し、多くの人々にとって戦争は遠い存在となった。
焦土から立ち上がり、発展する富山県の中枢としてみごとに復興した富山市中心部。
当時の悲惨な状況を振り返り、先人から託された願いに思いを馳せてみたい。
●参考文献 「特別展 富山の近代化〜街はこうしてつくられた〜」編集/富山市郷土博物館 「栃谷義雄 アラビアの王様のように」発行/グッドラック 「澤田要作の夢」発行/グッドラック 「富山の社長2」発行/グッドラック 「女の交響曲」発行/グッドラック
▲松川に架かる舟橋の南詰にある常夜燈。上の部分が欠けているのは、空襲で焼夷弾があたったため。
富山大空襲
1945年7月31日、富山市内に4万5000枚の「空襲予告ビラ」が撒かれた。翌8月1日午後10時頃、富山上空に爆撃機の編隊が現れ、空襲警報が発令されたが、一発も落とさずに通り過ぎ、警報も解除された(長岡空襲へ向かう約130機であった)。
市民が安心して眠りについた0時半頃、再びB29の編隊174機が現れ、富山城址公園東南隅を目標中心点として、0時36分から111分間にわたり、4500個余りの集束焼夷弾、7800個余りのナパーム焼夷弾、300個の集束ナパーム焼夷弾を一斉に投下。その重さは1400トン余りに及んだ。
集束焼夷弾は、1個に110本の小さな焼夷弾が束ねられており、落下の途中、上空1500mで花火のように破裂した。合計約50万本もの焼夷弾の雨が、秒速250〜300mで地上に降り注いだ。神通川の川原にも大勢の人々が逃げたが、そこにも隙間なく焼夷弾が突き刺さった。
この空襲で、約3000人の方が亡くなり、88000人が負傷した。当時の富山市街地の99.5%が焼失したが、これは全国一の〝焼夷率〟という。
「語り継ぐ 富山大空襲 会誌・第三集」、1999年7月 富山大空襲を語り継ぐ会発行 より
体験者が語る富山大空襲
昭和20年(1945年)8月1日深夜、米軍の爆撃を受け、焼け野原になった富山市街地。現在、市民や観光客の憩いの場となっている富山城址公園や松川あたり一帯は爆撃の中心点に近く、多くの市民が犠牲になった場所でもある。
当時、この空襲を体験した人々は、その時の光景が、今なお鮮烈に脳裏に残っているという。
東京と富山で大空襲を体験
浅岡節夫さん(富山県オペラ協会名誉会長 昭和6年生まれ 当時14才)
戦時中、東京に住んでおり、何度も空襲に遭いました。毎日、空襲の恐怖にさらされてノイローゼになりかかりましたね。
3月10日の東京大空襲の後、富山に疎開。最初は西田地方にある父親の妹の家に行ったんですが、1カ月ほどした後、鹿島町(神通川原の近く)の空き家に引っ越しました。疎開して、富山は平和だなと思いましたね。
ところが、8月1日の前日、空襲予告のビラがまかれたんです。富山に来てまで空襲はないと思っていたのに、驚きましたね。私は当時、富山中学の2年生で、不二越山室工場へ通年動員で行っていました。そこで、機関砲とか、機関銃だとかを作っていたんです。それもあって、情報はピリピリなんです。他の学生達はのんびりしていましたが、私は空襲は本当にあると思いましたね。家に帰って、明日空襲があるから疎開するようにと親父に言ったのですが、トラックで来るばかりになっていた荷物があり、とりあえず、作ったばかりの茄子の畑を掘って、家財や皿などを埋めました。
その日、不二越から8時頃帰ってきて、少しうとうとした頃に空襲が始まりました。母親が2階で寝ていた私を起こしに来たんですが、その後すぐに、寝床に爆弾が落ちました。玄関に出ると、玄関が燃えていましたね。
東京には世界最高の射程距離9000mの高射砲があるんですが、爆撃機はそれを越えて、涼しい顔して、1万何千mの高さから落とすんです。だから、B29の機体なんて、5、6センチぐらいの小さいものだと思っていました。けれど、富山では4000mぐらいから落とすので、爆撃機って本当はものすごく大きいのだと知りました。
空襲後、中学に通う道に、人の丈以上もある不発弾が落ちていましたし、神通川原も不発弾だらけ。富山大橋にも、つーっと爆弾が突き抜けた跡がありました。その後、通行している時でも、長い間ずっと穴が空いたままになっていたことを覚えています。
火の海の中を逃げ惑う
柳原茂成さん(当時17才・グッドラックとやま1982年8月号特集のインタビューより)
神通川の河原に着いて間もなくでした。最初の焼夷弾が富山駅近くに落とされ、ピカーッと光り、シューと音をたて、途中6つにも、8つにも光が分かれたと思うと次から次へ落下し、10分程で、富山駅周辺が丸く円を描いたように火の海となりました。
そんな様子を河原で見ていると間もなく、私たちのいる場所にも豆をまくように焼夷弾が落ち出し、多くの人達が右往左往、川の中に入る者、橋の下に避難するものと、異様な雰囲気に包まれました。私と弟は水に濡らした防空頭巾をかぶり、首筋まで水の中に入り、離れないように名前を呼びあいました。私たちのすぐ前・後・横とひっきりなしに焼夷弾が落ち、敵機が去った後で河原に上がると、私の履いていた長靴が片方、真っすぐに裂けていたのです。
あちこちに、転がっている無惨な死体。家族を呼び合う声。泣きながら親を探す子どもの姿。やっと歩いている負傷者。2時間前には想像もつかなかった生き地獄を見ました。
疎開先から見た炎上する富山
橋本敏宏さん(サクラパックス会長 昭和11年生まれ 当時9才)
当時、小学生は全員疎開しなくてはならず、私は小学2年生だったので、親戚のおじさんやおばさんに連れられて、本宮の方に疎開していました。父、母、中学生の姉は桜木町の自宅にいました。
8月1日の夜、頭上にB29がブンブン、ブンブン飛んで来て、布団の中で怖くて怖くてね。そのうち、みんな叩き起こされて、着替えて、防空頭巾をかぶって、いつでも逃げれるような形で部屋に集まっていました。すると、眼下に富山が燃えているのが見えるんです。B29の黒い影が火に反射して見え、爆弾が落ちて行くのが見える。その火の中に両親と姉がいるのに、それをただじっと見ているしかできませんでした。
その頃、父は初めて家を建てたばかりでしてね。家が燃えるまで、ずっと見ていたそうです。最初、家には爆弾がなかなか落ちず、大丈夫かなと思っていたところ、隣の空き地の材木から火が燃え移ってきたので、これは駄目だと。それから逃げようと思ったら、周りは煙だらけで、松川に飛び込むのも悪戦苦闘だったそうです。
両親と姉は、結局、松川に入って助かったんですが、親を亡くした友達がたくさんいましたね。松川へ流れ込んでいる桜木町の裏の小川は、煙の通り道になって、そこに飛び込んだ人達は、100人以上亡くなられたそうです。
戦火から逃れるため、多くの市民が神通川や松川などに逃れた。弊誌発行人の中村孝一(当時11カ月)も、この時、母親の背中に背負われ、焼夷弾が降り注ぐ中、松川の笹舟に乗っていた。
「私の泣き声が大きいので、5才の兄が『B29に聞こえるから、泣くな』とたしなめていたそうです。母親が、背中に衝撃を感じ、慌てて私を背中から降ろしたところ、防空頭巾をかぶっていたおかげで無事だったので、ホッとしたと言っていました」
また、大空襲は、離れた場所から見ていた幼い少年達の心にも深く刻み込まれた。
奥井健一さん(梅かま社長・昭和14年生)
富山大空襲のときは5才で、滑川に疎開していました。富山が真っ赤に燃えているのを見ています。B29がすごい音で、とても怖かったですね。いまだにその時の夢を見ることがありますよ。
松井竹史さん(テイカ製薬社長・昭和15年生)
戦時中は立山町に疎開しており、常願寺川沿いの堤防から空襲を見ていました。5才の時でしたが、市内が真っ赤に燃えて、その色が映った赤いB29が飛んでいったのをよく覚えています。
▲「戦災概況図富山」国立公文書館デジタルアーカイブより
昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図が作成された。網目の部分が爆撃を受けた富山市中心部。
復興に向け、力強く立ち上がった市民
翌8月2日、一面焼け野原になった富山の街の上に広がっていたのは、雲一つない真夏の青空だった。当時、小学校の教員だった田中迎子さんは、その時の状況を次のように語っている。(『女の交響曲』田中迎子監修より)
「何しろ街は焼け野原で、大和と電気ビルが無惨な姿で見えるだけ。もうもうとした煙の中から、かげろうのように黒い姿が現れたり、真っ黒にこげた死体があちこちに転がっている、地面も空気も熱くて熱くて、息をするのもやっとでした。2日目から、私たちは学校の焼け跡に集まり、まず生徒の消息を尋ね、1日も早く授業を再開しましょう、と、炎天下の中を歩き回りました」
そして、富山大空襲から2週間後の昭和20年8月15日、終戦。田中迎子さんは、「やっと終わった、と何とも言えない希望が湧いたものです」、と語っている。
富山市は翌月の9月1日、復興部を新設。12月には戦災復興都市計画街路を決定し、中心街路を県庁線(現城址大通り)とするなど、戦災復興に向けて歩み始めた。
市民たちも、徐々に以前の生活を取り戻し始めた。現在の「ヤングドライ」の前身・「旭屋クリーニング商会」は富山駅にあった店舗が空襲で焼失。終戦後、召集されていた初代・栃谷源吾氏が軍隊から戻り、昭和21年(1946年)4月、中央通り商店街の近く、常盤町にて営業を再開した。戦争中、源吾氏が自分で作った洗剤を防空壕の奥にしまい込んでいたことで、物のない時代に商売を早く再開できたのだという。
同年6月には、空襲で壊滅的被害を受け供給停止していた「日本海瓦斯(日本海ガスの前身)」が、ガスの供給を開始。お客さま戸数18戸からの再スタートだった。
「池田屋安兵衛商店」の初代・池田実氏も、いち早く店を建て直した1人だった。店舗が焼失した後、能登から古材を馬車で運び込んだのだ。池田安隆社長は、「この時に江戸時代の商家の店構えのように立て直したのは、父なりの考えがあったようだ」と語る。
また、「北陸中央食品」の初代・澤田要作氏は、復員後、青果市場で奉公していた経験を生かし、昭和21年(1946年)、富山市総曲輪にバラック建ての小さな食料品店「みやこ屋」を開業している。
当時は全国的な食料危機で、市民は農村の親戚や知人を頼って、米や芋の買い出しに明け暮れていた。このような中、要作氏は「消費者が望む食料品が、いつも食卓をいっぱいにできるようにしたい」との夢を持ち、商売に励んだのだという。
昭和22年(1947年)8月1日、大空襲で亡くなった人の鎮魂と、戦後復興を市民全員で誓う象徴として、神通川で花火大会を開催。今年で69回目となる。
昭和29年(1954年)には、戦災復興事業の完成を記念して、富山城址公園一帯で富山産業大博覧会を開催。この時、シンボルとして建設されたのが富山城であり、市庁舎と公会堂も、この時に合わせて新築されている(現在の富山市庁舎は、平成4年に市制施行100周年記念事業として建て直されたもの)。また、昭和30年(1955年)、戦後復興を進める富山市中心部の活性化を願い、チンドンコンクールが始まった。
空襲で焼失した松川べりの桜は、昭和25年(1950年)〜28年(1953年)にかけて再度植えられ、平成2年には「日本さくら名所100選」に選ばれるまでとなった。さらに、この松川べりは昭和56年から「水と緑のプロムナード」をテーマに、県内の作家による28基の彫刻を設置。昭和63年には遊覧船も運航を開始し、市街地のオアシスとして生まれ変わった。
戦後、著しく復興を遂げた富山市。爆撃の目標中心点となった富山城址公園東南隅(ANAクラウンプラザホテル富山の正面向かい側)には、現在、ガラスのモニュメントが設置され、周りには子供たちの夢や希望が書かれたタイルが埋め込まれている。
今年は、戦後70年の節目の年。富山市街地に悲惨な大空襲の爪跡をほとんど見つけることはできないが、当時の人々の復興への願いは、今なお連綿と受け継がれている。先人達の労苦に改めて思いを馳せ、ふるさと富山を愛する心を育んでいきたいものである。
▲市街地のオアシスとなった松川。