馳越線工事の話(富山市)
江戸時代、神通川は河口から6㎞~8㎞にかけ大きく東に屈曲して、現在の松川、いたち川の川筋を流れていました。そのため、水害が絶えず、明治34年(1901年)から36年(1903年)にかけて、この屈曲部分をほぼ直線で結ぶ馳越線新設工事(国庫補助率33%)が実施されました。工事直後の馳越線の水路幅は2mしかなく、洪水のたびに新しい水路に流水が流れ込み、その勢いで少しずつ川幅を広げていきました。
さて、この時の築堤工事について、左岸側は佐藤助九郎氏が請け負ったそうです。右岸側は武内鶴次郎という人が請け負いましたが、期限内の竣工が不能となったため契約が解除され、東七郎右衛門という人が落札した、ということがあったそうです。工事にあたっては、新しく川になる部分に住んでいた住民250戸が、現在の富山駅の南西部に移住したそうです。
なお、この工事は当初、洪水の際の溢水を防ぐ水流調節を目的としていたそうですが、結果的には河身変更を早めることになったということです。
明治39年7月頃には、流水の9割程が新しい川に流れるようになり、大正3年に起きた洪水では、ついに旧神通川にはほぼ流れなくなりました。
参考/国土交通省ホームページ、『明治の富山をさぐるー総曲輪を中心としてー』(水間直二編)