[総曲輪通り 125周年]総曲輪通りの変遷と富山の街づくり


▲今春から富山駅の南北を繋いで走る路面電車が、西武跡に建つ複合再開発ビルと商店街アーケードの横を通り過ぎる。


▲左/昭和初期頃の総曲輪通り(富山名勝 古葉書より) 右/100周年を迎えた1995年当時の総曲輪通り

 

富山城の外堀跡に誕生し、県都・富山市が誇る繁華街として県民・市民に親しまれてきた総曲輪通り。25年前、100周年を記念して行った弊誌の座談会では、今後の商店街の姿を模索する関係者たちの切実な思いを知ることができる。以後、行政とタイアップし、富山の街づくりの一環として再整備されてきた総曲輪通り。これから150周年に向かう中、総曲輪通りに求められているものとは——。

 


◇座談会出席者(役職は座談会開催当時)

 森田 明(総曲輪地区最開発準備組合理事長・トラヤ社長)
 福田利一(総曲輪通り商盛会理事・フクロヤ社長)
 吉田友裕(大黒や社長)
 宮本純子(ミス富山)

◇司会/中村孝一(グッドラックとやま発行人)

 

富山城内に誕生した総曲輪通り

司会 総曲輪は、富山城の外堀の内側に誕生した全国的にも珍しい街。江戸時代の富山城内といえば、東は桜木町、西は舟橋の架かる旧国道沿い、南は総曲輪通り、そして北は松川(当時は神通川)までの約12万坪。その外堀を埋め立てた上に総曲輪が生まれたということですが、今やこの松川のみが往時の面影を残しているわけです。
 今回は、100年という大きな節目を迎え、「過去」「現在」「未来」の視点でお話しいただけたらと思います。

森田 総曲輪通りが誕生した明治28年は、日清戦争に勝って国中の景気が良くなった頃。その年の夏に夜店を開いて、おもちゃやスイカや綿菓子などを売ったら大当たりでね。それをきっかけに、商業界のポジションもナンバーワンになったと聞いています。
 もともと外堀の埋め立て地に西・東別院が進出し、その門前町として栄えたのが総曲輪。当時は別院に賃料を払って借家に入り、商売をするという形でしたから、いろんな人が一旗揚げようとやってきたんですよ。
 また中央通りが兄貴なら、弟は総曲輪通りに店を出せ、ということで、次男坊や三男坊もどんどん入ってきてね。熱心だし裸一貫だから何をやってもかまわんということで、封建的な時代にはかえって良かったようです。
 とにかく、昔は娯楽がほとんどありませんでしたから、総曲輪で買い物や食事をして、寺に参って帰るというのは、大変なレクリエーションだったんでしょうね。

 


▲明治12年頃から埋め立てられていった富山城の外堀部分に店が建ち並び、総曲輪通りを形成していった。
(富山市街見取全図 明治18年 富山市郷土博物館蔵) ※斜め線は、当時残っていたお堀部分

 

多くの人であふれた黄金時代

司会 総曲輪通りがいちばん繁盛していた頃というと?

森田 明治からオイルショックのあった昭和50年頃まででしょうか。戦争中と戦後を合わせた約10年間は物がなくて苦労したそうですが、私が総曲輪へ来た昭和28年当時、既にアーケードを作る元気がありましたからね。

福田 私の家はもともと公会堂のすぐ横の方にあったんです。城址公園を庭として育ちましたので、少年時代というと、この城址公園と東・西の別院のことが多いですね。東別院の境内には夏になると舞台や寄席が立ちまして、子供の頃、そこでおばあちゃんと落語を聞くのが好きでした。そういった点で総曲輪はエンターテインメントにあふれていたと思いますね。
 私事になりますが、フクロヤは大阪へ時計職人の奉公に出ていた祖父が、大正7年に時計店として創業したそうです。戦後には、きわめて珍しいレコード屋になりましたが、LPレコードといえば、戦前の大卒サラリーマンの初任給と同じ金額でしてね。1日1セット売れれば、奉公人を含め家族全員が生活していけたそうです。

司会 大卒の初任給が6000円の頃でも、2000~3000円位しましたね。吉田さんのお店は、総曲輪通りと同時に100周年を迎えられましたね。

吉田 私どもの初代は、明治21、22年頃に松任から一旗揚げようと、富山へやって来たんです。明治28年の神通川の大氾濫の折、大黒様を作る鋳型が家の軒先に流れ着き、たまたま大黒様にまつわる色々なことが度重なったので、屋号を「大黒や」としたと言われています。そば屋には28という言葉もありますし、この年を創業の年と決めたようです。
 先ほど森田さんが、昭和50年頃までの約80年間が総曲輪の黄金時代だったと言われましたが、私が昭和53年に東京から戻ってきて以来、店の売り上げがそれ以前を上回るということはありませんね。

 

時代の流れとともに変革を迫られる商店街

司会 100周年を迎えた総曲輪通りの「今」の状況はいかがでしょうか?

森田 スーパーの原理が導入され、日本の商業界も大きく変わりました。大型店は広い売り場を確保できる郊外に進出し、車の普及によって、消費者もどんどん郊外へ流れるようになったんですね。
さらにテレビの普及による情報化時代の到来…。総曲輪通りでは、昭和40年代から既に歩行者数が右下がりだったんですが、昭和51年に富山西武が進出し、一時良くなったんですね。しかし、郊外店は増える、その中へ専門店が入る、ということで、着実に客数が減っていったと言えます。
 このような状況を打開するため、様々な対策を講じてきましたが、なかなか難しいのが現状で、結局、未解決の問題が多いまま、今日に至っているわけです。

福田 今、商業の機能は小規模から大規模へと変化し、かなり高度なものとなっています。しかし、総曲輪での小規模商業だけでは、この時代の流れには対応していけないんです。以前、小規模商業は大規模商業に対し、より高額な高級品で対抗しようとした歴史がありました。ですから、総曲輪の専門店に売っている商品は、百貨店や郊外の大型店で売っているものより上でなければ存在する意味がないと、どんどん高額化していったわけです。それがバブル崩壊によって一挙に崩れた——。
 現在は安売り競争の時代ですから、不景気の影響だけでなく、高額品を主力にしようという小規模商店自体が時代に合わなくなってきていると思います。大規模にならないと、安売りはできないというところが問題ですが…。
 その点、総曲輪通りはやれる分野だけの商店だけが行き残っているというのが現状ではないでしょうか。業種的には洋服や宝石などが多いですが、これらはそんなにいつも買いに行くものではありませんし、客足が落ちるのも当然と言えるかもしれません。

吉田 2年前の12月に、商工会議所で総曲輪通りの通行量調査が行われましたが、うちの売り上げと通行量の増減がピタリ一致するんです。もちろん、例外も数日ありましたが、我々のように通行量と売り上げが深く結びついている商店は、今後ますます厳しい選択を迫られるのではと思います。
 ここ20年ほどで、今まで続いてきた考え方は根底からガラリと変わりました。商店街はそれに対応しきれていないというのが現実ですし、今後はさらに個々の店がふるいにかけられていくのではないでしょうか。

宮本 私は市外に住んでいますが、中学生の頃から、富山市に行くと言えば必ず総曲輪通りに来ました。今のお話を伺っていますと、人間の生活や必要とするものがどんどん変わり、商店街自体も変わらざるをえないんだなと、ひしひし感じます。

司会 最後に、今後の展望をお聞かせ下さい。

森田 総曲輪通りの問題点については、様々なところで指摘・分析されていますが、どのように解決するかということになりますと、非常に難しいのが実状です。しかし、このままでは時代に取り残されてしまう危険性があります。
 そのためにも、行政とタイアップしながら、できるだけ広範囲における再開発を行うべきではないか、というのが我々の考え方なんです。つまり、現在のように1階のみで商売するという利用効率の低いやり方を改め、何店舗も入れるビルを建てる——。例えば、5階建てなら従来の5倍の広さが生まれますからね。そして、消費者の求めているものを、どんどん取り入れていくわけです。
 もちろん、これは個々の店の皆さんの総意が必要です。総曲輪通りの将来を真剣に考えていただき、ぜひ多くの方に参加していただければと思っています。

福田 そもそも商店街は、自らの土地で自らのために利潤を追求する立場にあり、本来は行政が補助すべきではありません。しかし、総曲輪の「街づくり」という観点からは、行政との連携が必要です。
 これからの商店には高度な機能が必要であり、そのためにも再開発によって有効床を創出していかねばなりません。30坪商売で壁紙を張り替えたり、雨が降っているから傘を前に出そう、というのでは機能の充実にならないのです。
 そのために個々の商店が手を組むというのは、10所帯で生活を始めようというくらい、大変なことです。しかし、従来にはなかった機能を総曲輪に創出していかねば、来世紀はないと思います。

吉田 再開発は基本的には1つの柱になり得ると思いますが、商店街の機能として、「雑踏」「賑わい」など、いろんな要素を加味することも必要ではないでしょうか。人は何となく、ザワザワしている雰囲気が好きですし、人の集まるところに集まっていく傾向があります。そういった意味でソフトでも魅力を作り出し、後からハードがくっついてきてもいいんじゃないかとも思いますね。

森田 最後に一言。総曲輪通りは100年経ちましたが、これからは過去の荷物は背負わずに伸び伸びと、自分の店や総曲輪のために良いと思われることをやっていただけたらと思います。自分たちが先の5年を考えれば、また次の人があと5年のことを考える…ということでね。その歴史が100年になったわけですから。

司会 次の100年に向けた、総曲輪通りの新たな挑戦が始まりますね。本日はどうもありがとうございました。

 

総曲輪通り関連のあゆみ
※1995(平成7)年以降

1995年(平成7年)
総曲輪通りが100周年を迎える。

1999年(平成11年)
旧公会堂跡に全日空ホテル開業。

2002年(平成14年)
富山市長に森雅志氏が当選。

2005年(平成17年)
再開発ビル「西町・総曲輪CUBY」開業。

2006年(平成18年)
西武富山店が閉店。

2007年(平成19年)
2月、富山市の「中心市街地活性化基本計画」が、国から第1号の認定を受ける。
9月、全天候型イベント広場「グランドプラザ」、大和富山店をキーテナントとする「総曲輪フェリオ」開業。

2010年(平成22年)
総曲輪ウィズビルに「地場もん屋総本店」開業。

2015年(平成27年)
3月、北陸新幹線開業。
8月、富山市ガラス美術館、富山市立図書館を併設する複合施設「TOYAMAキラリ」開業。

2016年(平成28年)
西地区再開発事業として、映画館、ホテル等を併設する「ユウタウン総曲輪」開業。

2017年(平成29年)
旧総曲輪小学校跡地付近に、医療・福祉・健康の官民複合施設「総曲輪レガートスクエア」開業。

2019年(令和1年)
西武富山店跡に、分譲マンションや商業施設などの入る複合再開発ビル完成。(商業施設の一部は2020年7月オープン予定)

2020年(令和2年)
3月、 路面電車南北接続事業完成。

 

 

 

 

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