旧神通川沿いの料理店(富山市)
2019年12月号の「地域の雑学」コーナーで「滝廉太郎が住んでいた頃の富山を探る」と題し、船橋の後の神通橋(明治15年12月架橋)の東側の神通川沿い(現在の松川べりの「親水のにわ」付近。旧塩倉跡や旧鳥類園跡の辺りにもなる)に建てられた「楽只園(らくしえん)」「銷夏湾(しょうかわん)」「対青閣(たいせいかく)」について紹介した。今回は、更に詳しく見てみよう。
最初に建てられた楽只園は、明治17年12月に完成したが、ここは初代富山県知事・国重正文が赴任した(富山県は明治16年5月9日に石川県から分県)時、宮殿下、大臣はじめ貴賓の接待宿泊の場所がないので、自ら首唱し、官民有志の義損金をもって建築したことはその時も触れた。
続いて銷夏湾が建てられたが、詳しい建築年は不明で、明治18年にはあったようだ。
そして、3つ目の対青閣(富山における西洋料理の最初。富山県書記官〔今の副知事に相当〕の滝吉弘〔滝廉太郎の父〕が富山を離れる時の送別会が開かれた場所。滝廉太郎も含む滝一家は、明治19年9月から明治21年5月まで富山で暮らした)は、明治20年6月に竣工した。桜木町の古今楼の主人、林政義が旧塩倉跡で新築した。
銷夏湾は明治24年、高桑惣吉の経営を離れ、楽只園と統合されたのではないかという。
明治27年6月には、開市記念祭に合わせて、対青閣は楽只園とつながり、千歳館と改称されたという。
参考/『明治の富山をさぐる―総曲輪を中心として―』(水間直二編)