滝廉太郎が住んでいた頃の富山を探る
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である滝廉太郎〔1879年(明治12年)8月24日〜 1903年(同36年)6月29日〕は、7〜8歳の頃を小学校(富山県尋常師範学校附属小学校)があった富山城周辺を遊び場として過ごしました。
その頃の富山はどのような感じだったのでしょうか。今回は、『明治の富山をさぐる―総曲輪を中心として―』(水間直二編)を中心に見ていきましょう。
廉太郎は、父・吉弘が、富山県書記官(現在の副知事職に相当)に任命されたことから、1886年(明治19年)8月に、家族とともに富山に来ましたが、その4年前の明治15年に神通川の名所「船橋」が、木橋「神通橋」に架け替えられています。両岸には老木が並んで川面に垂れ下がるものもあり、きれいな水が河畔をゆうゆうと流れて素晴らしい風景を描き出したといいます。そして、3年前の明治16年に「石川県」から独立し、現在の「富山県」が成立しました。2年前の明治17年には、初代富山県知事・国重正文氏が、貴賓の接待宿泊の場所がなかったため、自ら首唱して官民有志の義捐金をもって、神通橋近くの神通川べりに楽只園(らくしえん)を建築しました。同じ頃、隣に会席料理の銷夏湾(しょうかわん)が建っています。前年の明治18年5月には大火があり、西別院が焼失しています(東別院は罹災を免れました)。明治19年に入って2月には、諏訪川原に魚のせり市ができ、1日に2回行ったそうです。同年6月頃には全国で流行していたコレラが侵入し、県下で1万人以上が亡くなっています。
なお、附属小学校(師範学校)と堀を隔てて、西之丸(今の城址公園芝生広場)には監獄署がありました。ちなみに、附属小学校(師範学校)があったのは、三之丸の「赤蔵」の跡地と言われ、南側には江戸時代、藩校「広徳館(こうとくかん)」がありました。
廉太郎が小学校に通っている明治20年6月に、楽只園、銷夏湾に続き、その隣に、西洋料理・会席料理の対青閣(たいせいかく)が竣工しました。築地の精養軒からコックを雇い入れ、富山における西洋料理の最初とされています。
また、明治20年には、越前町に富山郵便電信局ができています。
廉太郎の父は1888年(同21年)5月に富山県庁を非職となり、神通川を眺める対青閣で送別会が開かれました。
国立国会図書館
『中越商工便覧』(川崎源太郎 著、明22.2)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262172