神通川直線化120周年・『川と街づくり国際フォーラム』開催20周年記念 サンアントニオ・リバーウォーク 川の街 誕生物語 PART1

 2003年9月、神通川直線化100周年を記念し『川と街づくり国際フォーラム』を富山市国際会議場で開催してから、今年で20年となった。
 このフォーラムでは、川を活かしたユニークな街づくりを行う先進地、米・サンアントニオの公園管理者であるリチャード・ハード氏が講演。その歴史と街の魅力について紹介したが、その内容を再び振り返ってみたい。

サンアントニオ・リバーウォーク

小さな川が、街の発展に多大な影響を及ぼす

 サンアントニオ川は、世界の大きな川と比べると、小さな川です。一見したところ、曲がりくねったどこにでもある小さな川にしか見えません。この河畔は「サンアントニオ・リバーウォーク」と呼ばれています。
 ところが、この小さな川がサンアントニオ市の発展に多大な影響を及ぼしており、実際、この街ができたのは、この川があったからなのです。
 今日、サンアントニオは総面積が480平方キロメートル、人口100万を越す都市です。市の中心部を曲がって流れるサンアントニオ川は街のシンボルとなっており、河畔には細長い公園があって、野外レストランやお店、ホテルが並んでいます。
 この公園は、道路レベルより5メートル下にあり、高いイトスギの木の上や、川に架かる橋からでないとよく見えません。そのため、川岸に下りていくと、別世界が開けてくるのです。
 街の中心部の騒音や、アスファルトの道から解放されるこの公園が「サンアントニオ・リバーウォーク」です。現在「パセオ・デル・リオ」とも呼ばれているこのリバーウォークは、街の大きな魅力になっています。

▼街の中心にありながら、街の喧騒を忘れさせる魅力的な空間を創り出したサンアントニオ。

松川の誕生と同じ歴史を秘めたサンアントニオの歴史

気候と地形の特徴

 サンアントニオの発展は正に、計画と開発の賜物です。リバーウォークの成功を理解するためには、この街の歴史を理解することが重要です。
 まず、サンアントニオの位置を地図上で確認してみましょう。
 サンアントニオはアメリカ南部のテキサス州にあり、メキシコ湾から260キロ北に位置しています。メキシコの国境からはさほど離れておらず、冬は暖かく、夏は非常に暑い気候です。
 降水量は一年で700ミリ。メキシコ湾からの暖かい空気が、北からの冷たい空気とぶつかって、雨が春と秋に降ります。時々、雷雨や大雨になることもあります。
 次は歴史です。考古学の調査によりますと、人々はサンアントニオ川河畔に何千年も前から住んでおり、それは豊富な水と野生生物のお陰でした。そして、アラモの砦などの伝道本部が、上流に造られるようになりました。
 乾燥した気候を利用することに長けたスペイン人は、川の進路を変え、灌漑用に石造りの用水路網を張り巡らせました。こうした水路が数百年に渡って、サンアントニオに水を供給することになったのです。

▼建築家・ハグマンの事務所が入っていた建物のそばを通り過ぎる遊覧船。

商業地帯が川の大湾曲部に発展

 街が大きくなる中で、川が果たす役割はますます重要になり、川の両側には、製粉所、ビールの醸造所、浴場などが建てられていきました。
 1880年代までに街は急激に大きくなり、商業地域は主に大湾曲部として知られる川のまわりに発展し、それが今日の街の中心になっています。
 川の全体の流れをご覧いただくと、上流からの流れが、途中で非常に大きく曲がっているのがわかります。これが大湾曲部と呼ばれているところです。アラモの砦はこの大湾曲部から少し離れた場所にあり、商業地域はちょうど湾曲部の中央にあたるところに集中しています。

▼アーチ型橋の工事の様子(1940年頃・サンアントニオ)

洪水で甚大な被害を受ける

 洪水によって川の外観が悪化したため、1900年代初期に論争が起こり、河川美化への提案が多く出されました。そして、水路の壁が数ブロックにわたって作られました。また、1920年に完了した土木調査では、大災害を回避するためには大規模な洪水対策が必要だと指摘していましたが、市がその提案を実施した頃にはすでに手遅れでした。
 1921年9月9日、大洪水が市の中心部を襲いました。ピークには、1・6平方キロメートルの市の中心部の4分の3が、3〜3・5メートルも浸水したのです。
 やっと水が引いた時には、50人もの人が亡くなっており、家屋等への被害は12億円にものぼりました。そのため、一時は1500人の兵士たちが治安維持のために街をパトロールしなければなりませんでした。
 この洪水の後、市民が将来の災害防止に向け、すぐ対策をとるようにと声を上げたことから、3つの緊急対策案が出されました。
 第一の提案は、上流に貯水ダムを作ることでした。そこで、1927年に完成したのが「オルモスダム」です。このダムは大雨で溜まった水を、雨が止んだ後に徐々に放流するシステムでした。

▼現在、バイパス水路に設けられた、洪水コントロール施設。大雨の時はこの水位をコントロールすることによって、最大4メートルの洪水にも備えることができるようになった。

神通川の馳越線工事と同じ改善案を実行

 第2の提案は、湾曲部の両端を結ぶバイパス水路を造る、また蛇行部を直線化することで、洪水の水を抵抗なくまっすぐに流すということでした。これは、富山で100年前に行われた、神通川を直線化した馳越線工事と全く同じものです。すると、洪水の水がバイパスの方に流され、湾曲部には流れていかないわけです。
 こうして、この真っ直ぐの川筋が主流になり、湾曲部分はそれから切り離されたわけです。松川が誕生したストーリーと全く同じというのも、不思議な縁ですね。
 1926年、建設はバイパス水路から始まりました。水路はビルの間に作られたため、建設は非常に困難を極めました。
 バイパス水路が完成した折、コンクリートの固い印象を柔らげるため、水路の両側には芝生が植えられました。洪水の水は、川底の低いバイパス水路を流れ、湾曲部の方には流れなくなったのです。
 第3の提案は、湾曲部をなくしてしまうというもので、湾曲部を排水路にし、その上を舗装するという計画でした。しかし、この提案は市民に大論争を巻き起こしたのです。
 川の可能性を信じ、これまで環境保存に努めてきていたサンアントニオ保全協会は、もちろん湾曲部の舗装に大反対でした。川を活かしたいという彼らの熱い思いに、地元の建築家ロバート・ハグマンが注目し、彼の信念が将来のリバーウォークの計画につながっていったのです。   (つづく)

神通川の馳越(はせこし)線工事
 明治中期、神通川は毎年のように氾濫を繰り返していました(明治23年と24年の2年間に、大洪水が5回も発生)。このため、神通川の改修計画が立てられ、明治36年の「馳越線工事」によって、旧神通川の蛇行部分を直線でつなぐ分水路「馳越線」が完成しました。同じ頃に「神通大橋」も完成し、馳越線に初めての橋が架かりました。
 当初、幅2メートルの分水路は洪水の度に激流によって大きく削られ、現在の川幅にまで成長。結果、馳越線が本流となりました。この直流化を決定づけたのが、大正3年8月13日に起こった大洪水だと言われています。以後、本流にはほとんど水が流れなくなり、市街地の真ん中に残された旧神通川跡は「廃川地」と呼ばれるようになりました。

▼リバーウォークにはカフェが設けられ、人々はゆったりとしたひとときを過ごす。

 


アメリカ・テキサス州 サンアントニオ市
公園管理者 リチャード・ハード氏

テキサス大学で植物学学士号取得。テキサスA&M大学で鑑賞園芸学修士号取得。1981年以降、サン・アントニオ市公園・遊園課に勤務。’81年から’98まで、サン・アントニオリバーウォーク、市洪水対策の管理責任をとる河川管理監督官であった。’03年当時、リバーウォーク、植物園などを含む公園全体の維持管理責任をとる公園管理者。

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