滝廉太郎が育った街、富山に「滝廉太郎ミュージアム」を!

「グッドラックとやま」2019 街づくりキャンペーン座談会

平成元年(1989年)1月11日付の北日本新聞に、「『荒城の月』のモデルは富山城!」との新説が掲載され、富山県民を驚かせた。これは『月刊グッドラックとやま(平成元年2月号)』に発表されたもので、共同通信により全国の新聞、テレビ、ラジオを通じて日本中を駆け巡ることになった。この年の9月に開かれた「全国タウン誌会議富山大会」では、“荒城の月と富山城”の劇を上演。参加した日本タウン誌協会会長・角田氏より、「これこそ地域ジャーナリズムの真骨頂」との評価をいただいた。
 あれから30年。滝廉太郎が少年時代を過ごした街・富山として、県内外での認知度が少しずつ高まる中、滝廉太郎記念館にて有志による座談会を開催した。

 


 

【出席者】
 浅岡 節夫 さん(富山県オペラ協会名誉会長)
 川田 文人 さん(北陸経済研究所 エグゼクティブフェロー)
 上口 享宏 さん(富山地方鉄道(株)自動車部営業課長)
 藤野 繁之 さん(富山地鉄サービス(株)広告部部長)
 吉田 友裕 さん(大黒や社長)

【司会】
 月刊グッドラックとやま 発行人 中村 孝一

 

司会 富山とゆかりのある文化的な偉人ということで、滝廉太郎の顕彰活動を始めて32年になります。きっかけは、松川遊覧船の事業を始めるにあたって先進地の柳川(福岡県)を訪れた際、大分県の竹田市を訪問した時のことです。当時、滝廉太郎が少年時代、富山にいたことぐらいは知っていましたので、せっかく隣の県まで行くのだから、『荒城の月』のモデルとなったと言われている城跡があるという竹田市に興味を持ち、行ってみようと思ったわけです。
 岡城という名の城跡が岡の上にあって、城の歴史を紹介する案内板には、「この城は島津の大軍3万8000によって攻められたが落ちなかった難攻不落の城である」と、誇らしく書かれているのです。『荒城の月』は破れた人たちの悲哀や栄枯盛衰が、物悲しいあのメロディーになっており、難攻不落の勝者の城をモデルに、あの哀愁を帯びた曲をどうやって作曲したのだろう、と、何か違和感を抱きながら、観光課を訪ねました。すると観光課長から、「滝廉太郎が竹田と富山にいた期間は、四捨五入すればどちらも2年なのに、なぜ富山では顕彰しないんですか?」と言われ、びっくりしました。富山市内の修学地跡に少年像はあっても、九州人会が建立したものですし、富山市は全く顕彰活動をしてきておらず、「滝廉太郎が富山に住んでいた価値がわからないのですか?」と言われたようで恥ずかしかったですね。

 

滝廉太郎の少年期に刻まれた富山での体験

浅岡 滝廉太郎が富山にいたのは小学校1〜3年にかけてとのことですが、私が少年時代のことを思い出しても、体験がしっかりと感受性に刻まれる時期ですよ。
 父が農林省の役人だった関係で、私も滝廉太郎と同じように小さい頃から各地を転々としています。その時々に覚えた曲なんかは、本当によく覚えているんです。まだ幼稚園にも行かない頃、満州で覚えたのが山田耕筰の『ペチカ』だったり、その後、川崎、東京と変わるんですが、覚えた歌で当時の住んでいた場所と年齢が判別できますから。

司会 それはすごいですね。滝廉太郎は23歳10カ月という若さで亡くなっていますから、暮らした街、一つ一つがとても印象深かったのではないかと思います。

浅岡 中でも、この富山城址で滝廉太郎が実際に遊んでいたわけですし、お城というものに対する感情はやはり特別なものがあったと思いますから、『荒城の月』の作曲に際しては、富山城のイメージが一番強かった、ということをもっと主張していいと思いますよ。

司会 竹田の観光課長も「滝廉太郎が岡城をモデルに『荒城の月』を作曲したとは一言も言っていない」と。「うちにはなんの証拠もないんですが、たまたま熱心な人がいて、もしかしたら、ということで碑を作られ、それが一人歩きして有名になったんです」、とのことでした。
 竹田には郷土愛の強い方がおられ、ゆかりのある偉人に対する思い入れがすごいですね。

川田 そういえば、富山市内の修学地跡にある滝廉太郎少年像の案内板が8月の台風で倒れてしまったのか、しばらくなくなっていましたね。

司会 そうなんです。11月中旬くらいには元通りになっていたようですが、富山にとっては大切な文化・歴史を伝える案内板ですから、できるだけ早く復旧していただけるとありがたいですね。

 

富山の歴史・文化を伝承していく大切さ

川田 富山県民、富山市民というのは、どこか金沢にコンプレックスがあるのか、歴史・文化的なことは金沢に任せて、富山は産業で勝負しよう、みたいなところがあるような気がします。
 富山は佐々成政が城を整備して以来、連綿と城下町として人が住んできているわけですから、その歴史を大切に伝承し、その中で歴史的なものを勉強していけばいいと思うんですが、学校では郷土史はほとんど学ばないのではないでしょうか。自分の所の歴史をほとんど知らないので、特に思い入れもないわけです。

上口 小学校4年生くらいに、富山県関係の話を勉強したな、という記憶はあるんですけど、どちらかというと産業的なことを学ぶことが多かったのかな、と。水力発電所やアルミについて勉強した記憶はあるんですけど、滝廉太郎はあまり記憶にありません。 
 『荒城の月』と滝廉太郎というのは、どこかで聞いたような記憶はあるんですが、しっかり勉強していないですね。

藤野 この座談会に出席するにあたり、滝廉太郎について調べてみようと、近所の図書館へ行ったんですが、郷土の所ではまったく滝廉太郎を探すことはできなかったんです。郷土の人物ということからみると、滝廉太郎にはスポットライトがあたっていないのかな、と改めて思いました。富山は経済面では偉大な方が多いんでしょうけど、歴史や文化面で埋もれている方については、われわれメディアの仕事でも少し力になれたらと思います。

 

歴史上のつながりが身近な存在に

吉田 「大黒や」はもともと総曲輪でそば屋をやっておりまして、今年で創業125年になります。120年を迎えるにあたり、うちの家系や歴史を調べていると、初代が竹久夢二の奥様と非常に近しい関係にあったことがわかったんです。
 さらに調べていくと、滝廉太郎が明治19年に家族とともに富山にいらっしゃったちょうどその頃、竹久夢二の奥様の親が富山県で裁判官をしていて、そのころには富山にいた、ということもわかりまして…。たまたま住所も千石町と西四十物町で、ほとんど距離にすると100m、200mのところなんですよ。そういった歴史上のつながりがわかってくると、とても身近に感じますね。

司会 歴史を調べると、いろんなことがわかってきますね。ところで、昨年11月に、北陸新幹線の全座席に配置されている「西ナビ」という冊子の「文化・偉人たちの北陸」というコーナーで、この「滝廉太郎記念館」を掲載いただいたんですよ。

浅岡 それはすごいですね。

 

「滝廉太郎記念館」の名称を「滝廉太郎ミュージアム」に

司会 JRでは地方の歴史・文化両面を掘り起こすことで、都会からの誘客をはかろうとしているんです。富山はこんな偉人がいた街ですよ、という視点です。富山の場合はそこが弱いので、県民市民の誇りにつながってきていないと思うんです。

吉田 富山駅前にある「だいこくやマリエ店」には、最近はインバウンドのお客様が多いんですが、行きたい場所や行ってきた場所についてアンケートをとると、「五箇山」や「アルペンルート」はもちろんですが、「富山城」「松川遊覧船」「環水公園」というのがけっこう多いんです。外国の方は富山市内にも関心が高いんですね。
 富山は戦災で歴史・文化面を失っていますが、「滝廉太郎記念館」を観光の目玉としてもっと打ち出すべきですね。最近の富山市内はミュージアムが大変充実してきていますから、「滝廉太郎ミュージアム」と名称を変えて、その中に松川茶屋がある、という感じでも面白いと思います。


▲滝廉太郎記念館は、1993(平成5)年、丸の内の修学の地に開館後、松川茶屋内に移設された。

 

富山城と滝廉太郎の関わりを語り継ぐ

上口 私どもは県外からのお客様を、富山のいろんな所へ貸切バスでご案内しています。その中で、富山城の前を通った時に、バスガイドが滝廉太郎と『荒城の月』の話をするように言わなければなりませんね。滝廉太郎が富山城内にある小学校へ通っていたのは事実ですし、語り継いでいくべきことだと思います。ずっと言い続ける中で、皆さんの頭の中にきっと残っていくと思うんですよ。

藤野 今日は皆様方のお話を聞かせていただいて、改めて富山を再認識させていただきました。以前はタクシーの運転手自ら、富山は何も見る所がない、と言ったことがありましたが、このような貴重なコンテンツにスポットライトを当てながら、もっと発信していくべきですね。

浅岡 この記念館にあるブロンズ像も、ぜひ、松川べりの「親水のにわ」あたりに設置できたらいいですね。そうすれば、遊覧船がその前を通る時、船長が「名曲『荒城の月』は少年時代を城内で過ごした滝廉太郎が、富山城の栄枯盛衰を思って作曲したんですよ」とガイドすれば、すごく説得力が出てくると思うんですね。

司会 県民市民の意識を少しずつ高めて、「滝廉太郎を育んだ街・富山」として、全国に発信していけたらと思います。本日は誠にありがとうございました。

 


▲富山城址公園内の爽やかな緑の中にある、現在の滝廉太郎記念館。

 

【編者付記】2006年、富山市ホテル旅館・事業協同組合からも市へ要望書

 今回の座談会では、「滝廉太郎記念館」の名称を「滝廉太郎ミュージアム」と変え、その中に「松川茶屋」がある、という感じにしたらどうか、という提案をいただいた。滝廉太郎が育った富山を、文化・観光面でもっとアピールしてほしい、との市民の声である。
 実は2006(平成18)年に、富山市ホテル旅館事業協同組合が、滝廉太郎の顕彰を進めるよう、森市長に要望書を提出したことがある。当時、組合長だった金澤正雄さん(当時の名鉄トヤマホテル社長)が、「今、森市長に提出してきました」と、帰りに弊誌の編集部に寄って下さって知ったのだが…。そして、要望書の写しをいただいた。 それには、次のように記されてあった。
 「滝廉太郎記念『富山音楽祭』への支援と、現在、松川茶屋併設の滝廉太郎記念施設の移転拡充を検討されたい。滝廉太郎は、多感な少年時代を富山市で過ごし、『荒城の月』や『雪やこんこん』の曲想を得たものと思われ、富山市民が誇りを持って語ることのできる人物である。是非、この事業を推進して頂きたい」
 あれから今年で13年にもなるが、市の動きは全くない。今回の座談会で「滝廉太郎ミュージアム』との新たな提案がなされたことは、富山市が「文化都市」としてはばたけるかどうかの試金石とも言えるだろう。(中村 孝一)


▲平成元(1989)年9月開催の「全国タウン誌会議富山大会」で上演された、創作劇「荒城の月と富山城」。滝廉太郎と土井晩翠を、劇団フロンティアの鮫沢祐二さん、富田ゆうじさんが演じた。


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