前田利家が初めて大名として居城したお城、越前府中城跡(福井県越前市)
加賀前田家初代(加賀藩藩祖)の前田利家は、織田信長の越前一向一揆平定後の天正3(1575)年秋、佐々成政、不破光治と共に、おのおの越前府中領十万石の土地を均分し与えられた。この3名を「府中三人衆」という。
初めて大名に出世した利家は、現在、越前市役所が立つ場所(ハピラインふくい・武生駅前)にあった越前府中城に居を構えた。この地の東側には、日野川が流れ、天然の堀の役目を果たし、平城を築くには格好の場所であった。
ちなみに、佐々成政は小丸城(越前市)、不破光治は龍門寺城(同)を居城とした。
当初はそれぞれの支配領域は明確ではなく、活動や発給文書を見ても、ほとんど3人共同で行っていたそうだ。天正4年(1576)年5月〜7月頃に所領割りが行われ、三人衆はそれぞれの所領と与力を持つようになったと考えられる。
三人衆の当初の任務は、越前国の大半を任された柴田勝家の目付であったが、加賀一向一揆や、上杉謙信との戦いで、勝家の与力としての性格が強まっていった。
利家は、天正9年(1581)年10月に、能登一国の太守(守護大名)として七尾に転封されるまでの約6年間をこの越前府中城で、妻のまつや子ども達と暮らした。
また、加賀前田家三代・前田利常(富山前田家初代・前田利次の父)は、まつの侍女であった高木村(現・越前市高木町)上木新兵衛の娘・千代が、後の文禄の役(1592)年の際、肥前名護屋で利家の側室に迎えられ、もうけた子どもと伝えられる。
こうしたことから、富山県人にとって、福井県越前市はゆかりの深い場所と言える。