勇気ある行政マンが街を変える

作/中村 孝一

 私には夢がある。それは子供の頃に抱いたベネチアのようなロマンチックな街を富山につくるという夢である。1000年の年月にも色褪せない、年と共に深みを増す〝水の都〟への夢、松川、いたち川、富岩運河といった、神通川によって誕生した富山の歴史を生かした「リバーシティ」への夢である。
 私は、その夢を「神通回廊」と名付けてみた。その夢の街のモデルは、「アメリカのベニス」をめざし成功したテキサス州サンアントニオ市のリバーウォークである。1997年と2001年、そして2003年11月には県議5名、市議11名、元行政マン2名の総勢19名で訪れた街である。その1カ月前には富山商工会議所の一行も訪れ、ようやく夢の実現に向けてあゆみはじめた感がある。
 私が県庁と関係を持つようになったのは、1977年にグッドラックマガジンを創刊したことに始まる。その2年前『はばたけ友情の翼』を出版し、当時教育長であった中沖豊氏に推薦のことばを寄せてもらうため、訪ねたときである。彼が故ケネディ大統領の「諸君の国が、諸君に何をしてくれるかを問いたもうな。諸君が祖国のために何をなしうるかを問いたまえ!」の言葉を引用した時ほど、感銘を受けたことはない。ケネディのフロンティア精神、夢に向って挑戦し続けることのすばらしさを『はばたけ友情の翼』の一つのテーマとしていた私は、その後知事に当選された中沖氏が「県があなたに何をしてくれるか、ではなく、あなたが県のために何ができるかを考えてほしい!」と叫ぶのを聞いて、ケネディ再来かと思ったほどである。ところが、である。中沖知事の夢は、ことごとく行政マンによって阻まれることになる。「内部の敵」ともいえる反対勢力―これは私も度々体験し、今も体験していることである―正確に言えば賛成派と反対派、革新派と保守派の二つの勢力が県庁内に存在しているのだ。
 37年前、川から誕生した富山の歴史を生かし、神通川時代に帆船が往来していたことにちなんで松川に遊覧船を運航することを提案した。ところが、保守派のお役人に反対されてしまった。「前例がない」と。それでもあきらめず、何人ものお役人に説明して回るうち、「夢のある話ですね。しかし、一人一人会っておられては時間がいくらあっても足りないでしょう。関係する部局に集まってもらい、そこで可能性を探られては」との前向きな答えに出会った。そのお役人は一見、おとなしそうに見えたが、内面に強い信念を持ち、「富山県の発展につながることなら応援したい、一緒に夢を見たい」と賛成してくれたのだ。その言葉に励まされ会合を持つと、集まった担当者は皆賛成し、その「夢」を各課に持ち帰ったのだが、また保守派の壁に阻まれてしまい、堂堂巡りであった。今でこそ、県の企業誘致のパンフレットにまで紹介され、富山のシンボルとして認知されている遊覧船であるが、37年前には「前例がない」との厚い壁に阻まれ、出航が危ぶまれたのだ。その後、とうとう条件つきで許可されることになったのだが、その条件では経営が成り立たない。結局この問題を最後に解決してくれたのは、賛成派の力強い支援であった。
 神通川の直線化100年を記念してイベントを提案した時も、どの部局が窓口になるのかわからず遠回りをしたが、ある行政マンの知恵に助けられた。「富山誕生100年祭」とも言える、「リバーフェスタ in とやま」そして「川と街づくり国際フォーラム」の開催につながったのである。富山への熱い思いを抱いている県職員が少なからずいることを知ったことは、このフォーラムの何よりの収穫であった。
 花見時期はもちろん、四季を通じて語り尽くせない魅力を秘めた松川は、私の散歩コースでもある。私は県庁職員がうらやましい。特に南別館では毎日この景色を見ながら仕事ができるのだから。一番身近なところにいる県民である職員の皆さんの意識をまず、この小さな川に向けてほしい。そして、ほんの少しでも川の未来を語り合う時間をもってほしい。川べりを歩けばどんな問題点があり、どんな将来性を秘めているのかも、おのずと体感できるはずだ。