「滝廉太郎記念館」が社会科副読本に初掲載 郷土愛を育む教育に活かしたい/富山市教育委員会教育長 宮口 克志 氏

・創刊45周年/2022 グッドラック 街づくりを考える・

 

〝「荒城の月」のふるさとは、水の都・富山だ!〟との新説が発表されたのは、1989(平成元)年1月のこと。この説は、後に小学館の『日本大百科全書』に掲載された。1991(平成3)年2月、有志による「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」が設立され、1993(平成5)年9月には没後90周年を記念し、市内に「滝廉太郎記念館」がオープンした。 このたび、この「滝廉太郎記念館」が富山市の小学3、4年生向けの社会科副読本『わたしたちの富山市(令和4年度)』(富山市教育委員会発行)に初めて掲載されることとなった。これによって、子ども達が自分たちの街に 日本を代表する音楽家が、少年時代を過ごしていたことを知る一歩となり、郷土に誇りを持つことにつながっていくだろう。 今回は「歴史や文化を学び伝えていく大切さ」を宮口富山市教育長に伺った。

宮口 克志 氏 富山市教育委員会教育長
●聞き手/中村 孝一(月刊グッドラックとやま発行人)

 

滝廉太郎と富山の
関わりを知るきっかけに

中村 弊誌では、1989(平成元)年に〝「荒城の月」のモデルは富山城〟との新説を発表し、毎年「滝廉太郎祭」を開催するなど、長年、滝廉太郎の顕彰活動を行ってきましたので、このたびの社会科副読本への掲載を大変嬉しく思っております。

宮口 松川に遊覧船が走っていて、船の名前に「滝廉太郎」がついているということはだいぶ前から知っておりました。確か、以前の小さい船の時にも、「滝廉太郎」がついていましたよね。

中村 そうなんです。オープン当初に就航した笹舟5隻の中の1隻を、「滝廉太郎丸」と名付けまして、その後、1994(平成6)年に就航した大型船は「滝廉太郎Ⅱ世号」と命名しました。

宮口 松川遊覧船の名前にどうして滝廉太郎がついているのだろうと不思議に思っていたのですが、小学生の頃に富山に住んでおられたことを知り、納得しました。

中村 父親の転勤に伴って横浜からやって来た滝廉太郎は、7歳から9歳まで、富山城址内にあった尋常師範学校附属小学校に通っていました。23歳10カ月という短い生涯でしたし、富山での体験がその後の作曲活動に与えた影響は非常に大きかったと思います。子供の頃から滝廉太郎と富山のつながりを知ることで、郷土愛が高まるのではないでしょうか。

 

富山の歴史・文化を
子どもたちから未来へ

宮口 残念ながら、教育の場では滝廉太郎と富山の関わりについて広める活動がこれまではなかったようですが、住んでいる富山の歴史や文化を私たち大人が子どもたちに伝え、子どもたちがまた自分の子どもや孫に伝え引き継いでいくことは、非常に大事なことですね。
 そこで、16年前から富山市で発行しております3、4年生向けの社会科副読本『わたしたちの富山市』に、富山市内の博物館や資料館を紹介するコーナーがありますので、このたび「滝廉太郎記念館」を掲載させていただくことにいたしました。
 さらに、富山市教育委員会として富山市立の幼稚園長、小中学校の校長先生方を対象に様々な指導や伝達を行っている定例校園長会でも、滝廉太郎が幼少期に富山で過ごしていたという解説を加えながら、子どもたちに指導伝達するよう伝えました。
 この冊子を活用してもらうことで、子どもたちに富山ゆかりの偉人としてぜひ興味、関心を持ってもらえたらと思っています。

中村 1997(平成9)年、創刊20周年を記念し、当時の中沖知事から「知ることは愛することであり、愛することは知ることである」との珠玉の言葉をいただきましたが、今回の社会科副読本への掲載は本当に貴重な一歩になると思います。

 

▼1988(昭和63)年に就航した松川遊覧船「滝廉太郎丸」が、花筏が美しい「親水のにわ」を行く。

 

独自の研修制度で
富山の歴史・文化を学ぶ

宮口 これをきっかけに、子どもたちはもちろん、保護者の方にも知っていただけたらと思いますね。3、4年生は社会科の見学で城址公園や市役所等に見学に行きますが、その折に立ち寄ってもらうということも可能かと思いますし…。
 富山の美しい自然を体感することが心の教育につながると思いますので、松川遊覧船での川下りについても利用させていただければと思っております。

中村 ぜひ教育の場に、松川遊覧船を活用していただけたら良いですね。

宮口 他の市町村は県の教育委員会が研修を行う主体になりますが、富山市は中核市ということで、独自に研修できる権限を持っております。そこで、概ね30代の先生方を対象に「とやま教師塾」というのを実施して、富山の歴史や文化などを学ぶ機会を設けているんです。

中村 素晴らしい取組みですね。

宮口 テーマはその年によって違いますが、例えば富山の薬とガラスの関わりについてですね。富山のガラスは薬の瓶から発祥し発展したこと、さらに薬は銀行や紙類、パッケージなど様々なものの発展につながっていることなどを学んでいただきました。中堅どころの先生たちを対象に、体験、体感を通して、富山を知ってもらい、富山の歴史、文化、良さというものを実感した上で子どもたちに富山の良さを伝えてほしいという思いを込めて、このような企画をずっと進めてきております。

中村 先生方に富山の歴史や文化を知っていただくことは、とても大事なことですね。

 

▼小学3、4年生向けの社会科副読本「わたしたちの富山市」。

 

郷土について学ぶ場を
大切にしたい

宮口 また、富山は売薬のイメージが強いですが、近年はさらに発展してきておりますので、小学5年生を対象に『くすりのまち とやま』という副読本も作成しました。これを家庭にも持ち帰ってもらい、親子で見てもらうことで大人の人たちにも、今の薬やこれからの薬産業に関心を持っていただければと思っています。

中村 郷土について学ぶ教育を、意識的に作ってきておられるわけですね。

 

▼1993(平成5)年、滝廉太郎の母校、富山県尋常師範学校附属小学校跡地に建つマンションの1室にオープンした「滝廉太郎記念館」。富山城の石垣に「荒城の月」が輝く絵画が展示されていた。

 

郷土を知ることが
郷土愛を高める

宮口 そうですね。芝園小学校で校長をしておりました時に、文化施設や歴史的な建物が多い地区ということで、5年生の総合的な学習でこれらをパネルにまとめ、富山駅の構内に設置していただいたこともあります。

中村 学習した成果が観光客に役立つというのは、子どもたちも嬉しいですよね。

宮口 副読本の内容については、担当の方で原案を作ってきますが、こういうものも入れてみたらどうかとアドバイスしながら内容を充実させてきております。富山市では、私が教育長になる以前から、このように郷土について学ぶ流れができておりましたし、今回の「滝廉太郎記念館」の掲載も、その一環として非常に良かったと思っています。

 

▼現在、富山城址公園の松川茶屋内に併設されている「滝廉太郎記念館」。令和4年度からの社会科副読本掲載を機に、富山市内の子ども達の関心が高まることを期待したい。

 

中村 1979(昭和54)、富山の九州人会の発案で、附属小学校跡(丸の内)に滝廉太郎の少年像が建立されたのですが、この時に富山県民がこの企画に参加していなかったことを後から知り、大変残念に思っていました。今回、このような形で滝廉太郎を知る機会を作っていただき、県民市民の意識も少しずつ変わってくるのではと思っています。

宮口 限られた時間の中で、授業もしっかりやらなくてはならないのですが、地域を愛し、歴史に学ぶことの大切さを、子どもたちに知ってもらいたいなと思っています。これが郷土愛につながり、心の教育にも相通ずるものがありますので、学業と両輪で大事にしていきたいですね。
 教育基本法に「人格の完成を目指す」ということが謳われていますが、その部分をいちばん大事にしなければいけないと思います。

中村 本当にその通りですね。45年前、「グッドラック」を創刊する時に掲げた編集方針が「われわれに心の糧を与えてくれる雑誌」だったんですが「心の教育」が人間を育てるためにはいちばん大切なことですからね。このたびは、誠にありがとうございました。

 

▼1994(平成6)年4月、松川に就航した大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」。日中のお花見遊覧はもちろん、夜桜を楽しむディナークルーズが人気を呼んだ。

 

【宮口克志氏 略歴】
昭和32年10月18日生まれ
昭和55年3月 富山大学教育学部卒業
平成27年4月 富山市立芝園小学校長
平成29年4月 富山市教育委員会教育長

 

― 滝廉太郎 年表 ―

1879(明治12)年 8月24日
東京都芝区南佐久間町に生まれる。

1882(同15)年 11月 
父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。

1886(同19)年 8月 
父が富山県書記官となり、富山市に転居。
総曲輪(現在の丸の内)の官舎に居住。
9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)

1887(同20)年 2月 
父が富山県知事代理となる。

1888(同21)年 4月 
父が非職を命じられる。
5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。

1889(同22)年 3月
父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)

1890(同23)年 5月 
廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。

1891(同24)年 11月 
父が大分県直入郡長に転じる。
12月 一家、豊後竹田へ転居。

1894(同27)年 5月 
上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
9月 東京音楽学校(予科)へ入学。

1895(同28)年 9月 
同校本科へ進学。

1898(同31)年 7月 
本科を首席で卒業。9月に研究科入学。

1899(同32)年 9月 
音楽学校嘱託となる。(20歳)

1900(同33)年 6月 
ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。
この年、「荒城の月」「花」を含む組曲 「四季」 「箱根八里」 「お正月」など、多数作曲。

1901(同34)年 4月 
ドイツ留学へ出発。
10月、ライプチヒ王立音学院入学。

1902(同35)年 10月 
病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。

1903(同36)年 6月29日 
病死。 (23歳10カ月)

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