飛騨街道と籠の渡し

 

 

東街道、西街道、中街道3つのルートがあった

 神通川沿いをさかのぼり、越中富山と飛騨高山を結んだ飛騨街道は、富山湾で獲れた越中ぶりがこの街道を通って高山方面へ大量に運ばれたことから、「ぶり街道」とも呼ばれました。
 そのルートについて、猪谷関所館の展示解説をベースに見ていきましょう。
 越中国(加賀藩、富山藩)と飛騨国(幕府領)の境には街道ごとにそれぞれ番所が置かれていて、越中国側は7カ所ありました(七口)。飛騨街道には3つ(脇道を入れて4つ)のルートがあり、3つの関所がありました。
①東街道…神通川右岸沿いに東猪谷関所(加賀藩)を通り、高原川右岸の荒田口留番所を通り、茂住、船津(神岡)から高山にいたる道。
②西街道…神通川左岸沿いに楡原、西猪谷関所(富山藩)を通り、蟹寺を経て宮川沿いに小豆沢口留番所を通り、古川から高山にいたる道。本道になりました。
③中街道…西猪谷関所を通り、蟹寺で宮川を「籠の渡し」で渡り谷村へ出て、高原川左岸沿いに中山口留番所を通り、船津で東街道に合流しました。
 また、八尾から大長谷川沿いを庵谷の切詰関所(富山藩)を通り、二ッ屋口留番所を通り西街道に合流する脇道(二ッ屋街道)がありました。

 

中街道では、途中、籠に乗って川を渡った

 続いて、中街道のV字峡谷の断崖を渡る「籠の渡し」についてもう少し詳しく見ていきましょう。
 蟹寺村と谷村の間の宮川に架かる「籠の渡し」は、飛騨街道の難所として知られていました。「斐太後風土記」によれば、川幅十四間四尺(約26・4m)、蟹寺村の崖の高さ四間四尺(約8・4m)、谷村側は四間六寸(約7・4m)ありました。文化12年(1815年)ここを通った僧・野田泉光院(成亮)は日記に「日本一難所渡り也」と記していて、旅人にとっては相当苦労した場所だったようです。一人で渡る旅人もいたそうですが、普通は両岸にいる籠当番の村人に縄を引いてもらっていたそうです。渡し賃は六文ともいわれています。
 珍しい景観のため、富山藩10代藩主・前田利保や、8代藩主の母・自仙院が見物で訪れました。また、歌川広重が『六十余州名所図会「飛騨 籠渡し」』、三代歌川広重が『日本地誌略図「籠渡之図」』で描いた他、江戸時代中期の儒者で、8代藩主前田利謙に招かれ、藩校広徳館で教えた市河寛斉が、たびたび籠の渡しを訪れ、歌を詠みました。


▲籠の渡しがあった場所
 (Googleストリートビュー)


▲猪谷関所館に展示されている籠の渡し

「両岸に頑丈な力杭を打ち立てます。この力杭に山ブドウや藤づるをよって作った大縄を結びつけます。この縄の太さは直径15〜20センチほどあったそうで、この縄に籠を取り付けます。籠は長さ約5メートルほどのハンノキの枝を曲げて十字に組み合わせます。その下に縄を巻いた尻当て(曲輪蓙〔かわござ〕)を取り付けます。籠がよく滑るように、ハンノキを半円形に切り内側をくりぬいた刀良(とら)を大縄にかけ、その下に籠を吊り下げ、籠の下に引き縄と控え縄を結びつけ、それぞれを両岸の力杭に結びつけます」
『両機渡図巻』(富山市郷土博物館蔵)


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