・ グッドラックとやま 2025街づくりキャンペーン ・東洋のベニス”水の都・とやま”への挑戦
グッドラックとやま 2025街づくりキャンペーン ・
東洋のベニス“水の都・とやま”への挑戦
文/月刊グッドラックとやま発行人 中村 孝一
全国的に少子高齢化が加速し、地方では人口減少が進んでいる。その解決策の一つとして注目されるのが、ユニークな街づくりで人口はもちろん交流人口を増やし、活気を取り戻すという試みだ。弊誌では街の中心部を流れる松川を活かした、富山の歴史に裏打ちされた独自の街づくりを提案してきたが、今いちどこれまでの経緯を振り返ってみたい。
松川誕生の歴史と世界の観光名所
元号が「平成」へと変わったばかりのある日、私は富山市の中心部を東西に湾曲して流れる松川河畔を散歩していた。両岸の桜並木が河畔に枝を伸ばし、 都心とは思われない静けさと風情が漂っている。目の前をロマンチックな遊覧船が、観光客を満載して通り過ぎて行く。手を振ると、遊覧船の乗客も手を振って答えてきた。
「まるでベルギーのブルージュのような”水の都”ですね」
この旅行者のひと言が、私の好奇心を強く刺激した。その時、私は”ブルージュ”という街の名前さえも知らなかったのだ。
その2年前、私は“東洋のベニス”を目指して、街のど真中を流れる松川に遊覧船を浮かべたばかりだった。松川は川幅300メートルもの神通川が湾曲して流れていた名残りを留める、歴史的な川である。神通川は洪水のたびにこの湾曲地帯で氾濫を起こし、街に大被害を与えていた。
明治に入ってオランダ人の技師、 デ・レーケを招き相談したところ、真っすぐにバイパスをつけるようにと提言があり実行した。バイパスは洪水を治め、やがて本流となった。湾曲地帯は荒涼たる河原として残り、街の発展を阻害することになった。そこで、この広大な湾曲地帯を埋め立て、ここに街の中心を置くという、 当時としては途方もない大都市計画が実行に移された。
これはベニス(ベネチア)が河口の潟を埋め立て、その上に街を築いたのとどこか似ている。もちろん、 ベニスの場合は敵に攻められないよう潟の中に街を築いたわけだが、富山も戦国時代に城を築いた時、城の北側を流れる神通川を天然の外堀とすることで城を守っていた。昭和の初期、神通川の湾曲地帯は右岸側を現在の松川として残し、中州を埋め立てることによって、川の中に広大な土地を生み出し、街の中心をつくっていったのである。
このような街づくりは、パリ発祥の地といわれるシテ島の誕生にも酷似している。セーヌ川の中州を埋め立てて築かれたシテ島は10本の橋で結ばれ、現在もパリの中心となっている。神通川の湾曲部を埋め立てて誕生した富山のシテ島ともいえる埋め立て地には、現在、県庁、 市庁舎、県民会館、富山電気ビル、 富山地鉄ビルなど主要な建物が並び建ち、富山市が川の中に誕生した〝水の都〟であることがおわかりいただけると思う。
〝ブルージュのような街”と旅行者から讃えられた富山。その後、ブルージュが“世界で最も美しい街”と言われ、“北欧のベニス”と称賛されていることを知った時は驚きだった。
1987年8月、松川遊覧船に乗船したフランソワーズ・モレシャン女史は、「ベニスより松川の方がずっときれい! 松川には水だけではなく、美しい緑がありますね」と感想を述べた。
その後、ベニスを訪ねて、 モレシャンの言った意味がやっとわかった。”水の都・ベニス”でゴンドラに乗って運河巡りをしたが、松川のように美しい緑には、最後まで出会えなかったからだ。
“屋根のない美術館”と言われるブルージュ
1995年、永年の夢であったブルージュの街に初めて立った。まるで中世にタイムスリップしたような街だ。川や運河が縦横に走り、その景観の美しさは、まさに〝屋根のない美術館”と言ってよい。遊覧船に乗れば、石やレンガで作られた三角屋根の家々が、まるでおとぎの国のように巡ってくる。そしてここには、ベニスになかった緑がタップリとあるのだ。遊覧船で川巡りをしながら、なぜあの旅行者がベニスでなく、〝ブルージュのような街”と例えたのか、納得できるような気がした。ここでは緑したたる川辺りの草木が、絵のような美しさを見事に演出していた。
しかし、ブルージュと比較した場合、富山の松川河畔は残念ながら未完成と言わざるを得ない。それはブルージュが自分たちの街の特長である、川や運河を中心にした街づくりを進め、”水の都”の代名詞であるベニスにもない独自性を打ち出しているからである。
驚いたことに、川辺りに立っている建物の大半は水辺と道路の両方に玄関を持っている。水辺からも道路側からもアクセスでき、どちら側から見ても正面としてのデザインがなされている。船で巡る時、まさに川が本通りで、その川の両側に水面から直接立ち上がるように建物が立っている。その建物と建物の間に、緑の木立がうっそうと生い茂っているのだ。
ブルージュは、15世紀頃よりズウィン川が埋まり、航路が閉ざされる。だが、それがかえって川を中心に街づくりをしてきた中世の街並を、そのまま留めることとなったのだ。ベニスにしても物資の輸送は舟運で、運河を中心として街づくりを進めてきており、車を1台も入れないことによって異空間をつくり出している。この二つの街は、”川や運河を中心とした中世の街”をテーマにした、現代でいうテーマパークと言えるのかも知れない。
松川を活かし、川をテーマにした街づくりを
さて、川を中心に富山の街づくりを考えた場合、ベネチアやブルージュのように街全体を一つのテーマで考えるには無理があるようだ。それは富山の街が前者の二つの街と比較して、スケールが大きすぎることと、建物も近代的すぎるからだ。なにしろ、富山は城下町でありながら、大空襲によって昔の建物のほとんどを焼失してしまったという経緯がある。
しかし、神通川の湾曲部を埋め立て誕生した街の中心部と、その名残りを留める松川河畔を中心としたエリア内なら、川をテーマにした街を創造することは可能かも知れない。
松川は、街の地盤レベルから2.5メートルほど下がった所にある。この高低差を利用して、 地下の街のようにリバーウォーク(川辺りの散歩道)沿いの護岸に草花や低木を植えることによって、今以上に自然の美しさを保つと共に、カフェやレストラン、土産物屋などの「リバー・ショップ」を配置する。松川を中心に川辺りが楽しい界隈に生まれ変わってくれば、 それを見ようとたくさんの人が集まってくることになる。まさに富山県が目指す川の王国、“リバーランド”の誕生である。
川を中心にしたユニークな街、サンアントニオ
アメリカのサンアントニオは、この夢をいち早く実現した街である。コンベンション都市として、全米ナンバーワンの人気都市となり、年間1400万人以上の旅行者が訪れる。その秘密は、松川と同じように街の地盤レベルから一段下がった所に、 川を中心にした街をつくり出したことによる。
コンベンションの出席者の誰もが、この川の中にできた街の持つ、不思議な魅力の虜になってしまう。まるで地下の街のように、乗り物も進入してこない異空問が、街の地盤レベルを少し降りた所にあるのだから——。
川の流れは疎ましく思われるくらいゆっくりと流れ、ロマンチックな雰囲気の中を遊覧船が客を満載してやって来る。そして、乗船客は川の両岸にあるカフェやレストランでテーブルを囲む人々に、手を振って挨拶する。この川の中にできた別世界の街で、コンベンション参加者はユニークなアフターコンべンションを楽しむことができるのだ。
サンアントニオ市の将来像の中心に、この川を位置づけるという先見性をもった整備計画を練りあげ、夢を現実にしていったのは、建築家のロバート・ハグマンである。彼は1929年、サンアントニオ川の修景事業によって”アメリカのベニス”を目指すべきであると述べた。
「サンアントニオは、観光リゾート地としての可能性をまだ認識していない。河川修景事業により、サンアントニオは国内のどの都市よりも個性的な都市となるだろう。私はここ以外に都市部を美しい川が湾曲して流れる都市を知らない。修景計画が実現されれば、他に類のない魅力的な美しさを見るために、 またゴンドラに乗ってサンアントニオの都心部をめぐるために、世界中から観光客が来るに違いないと確信している」
サンアントニオ川は市内中心部を流れ、 洪水対策からバイパスをつくり、 湾曲地帯の自然の川を保存するという、松川によく似た歴史を持っている。川を中心に個性的な街づくりを進めた先見性に学ぶべき点は多いが、富山市はこのサンアントニオ市から姉妹都市の提携を申し込まれたことがある。お互い、湾曲した川を中心に街づくりを進めている奇縁からだ。
松川を中心とした“水の都とやま”実現に向けて
さて、”東洋のベニス・水の都とやま”のモデル地区として、松川を中心に”川の街”をつくるには、いくつかの問題点がある。
この構想を実現するには、サン アントニオ川と同じように、川の水位が常に一定に保たれる必要がある。現在、上流には水門はあるが、下流のいたち川が増水した場合、水が逆流してくるので、いたち川との合流点近くに水門をつくり、水位が常に一定になるようコントロールしなければならない。 また、松川には右岸側から3カ所ほど小川が流れ入っているので、この水を抜く方法も考えなければならない。とにかく、何らかの方法で川の水位を一定に保つことができれば、護岸に自然と人工が調和した〝川の街”を創造することが可能になってくる。松川の河川修景計画が実現すれば、旅行者が“ブルージュのような街”と感嘆した松川河畔は、よりいっそう輝きを増すことになるだろう。
”屋根のない美術館”を見るために、また遊覧船に乗って富山の都心部を巡るために、全国各地から、いや世界中から観光客がやってくるに違いない。
また、松川、いたち川、富岩運河を水路で結び、市中心部と岩瀬港を水上交通で繋ぐという大構想が提案されたこともある。これが実現すれば、江戸・明治時代、市中心部と岩瀬港を結び、最大の通商路として賑わった神通川の歴史が甦ることになるだろう。
神通川が流れ、”水の都”として の独自の街を形成してきた富山。 その歴史を大切に、神から授かった松川を中心に、”東洋のベニス・水の都とやま”の創造に挑戦していきたい。