いたち川沿いの立山禅定道(富山市)

かつての立山登拝の道をめぐる

 江戸時代の立山登山はずっと徒歩で行くのが普通だった。その道は幾筋もあったそうだが、主たるものはいたち川ぞいの道だったという。そこで、今回は、いたち川の取水口までの道とその沿線の見所をご紹介しよう。まず、いたち川の名前の由来だが、伝説によると、常願寺川の堤防に巣食っていたイタチの巣穴から漏水決潰して溢れ出た水で生じた川だからイタチ川と名付けられたという。一方、天正9(1581)年に常願寺川が大氾濫して富山平野を荒らした際、報告を受けた富山城主・佐々成政が災害を視察し、このまま川に仕立てて、田畑の灌漑、城の防備に役立てた方がよいと人夫を徴発して積極的に施工、造作したことから、佐々成政によって造作された川と言われるようになり、人夫を使役した人工の川だから役(えだち)川の意だと解説した方もある。一方、『神通川と呉羽丘陵』の中で、著者の廣瀬誠さんは、これは合理的に見えて、かえって無理なこじつけであろうと述べ、イタチの穴から決潰したというのは事実でないかもしれないが、イタチの多く生息した川と考えてよいと思うと述べている。なお、『上杉年譜』には、成政が越中に在任するよりも10年も前の項にイタチ川の名を明記しているという。
 さて、富山の町からの立山登拝の道は、通坊前(かつて伏木の勝興寺の支坊があり、賑わった。明治初期には中教院が設けられた)から川沿いにたどる道と、西町から太田口通り、中野口へと進む道があり、大泉の茶屋で合流していた。茶屋の脇には、尾張名古屋の杉屋佐太郎が、立山禅定で死去した父・佐助の供養のために建てた道標があった。現在、茶店はないが、道標は残っている。右側の道は、上滝街道と呼ばれ、下ノ番、善名、三室荒屋などの村々を通り、上滝へ通じ、そこから常願寺川を渡り立山へ向かっていたという。なお、途中、太田本郷城主の娘の病気が治ったという伝説がある「的場の清水」で一休みしていくのが慣習だったそうだ。この清水が枯れたのは、耕地整理の影響によるものだそう。地元の自治会などではこれを復活させようという運動もなされているようだ。
 登拝者が必ず参拝したという刀尾(たちお)神社とその横の刀尾寺は、もとは一体で、刀尾寺の入り口にも鳥居がある。
 いたち川は、常西合口用水(常願寺川上流の横江堰堤から取水)からの取水口から始まるが、その場所には、茶色の大きな設備があり、常願寺川第二発電所の取水口にもなっているようだ。

参考/「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著・桂書房)、他

 


▲「右立山道」と書かれた道標。かつてそばに茶屋があり、ここで一休みしてゆくのが常だったとか。

 


▲馬頭観音と大欅。戦前、成人儀礼の立山登山に際し、ここまで家族が送り迎えをする習わしがあったそう。

 


▲的場の清水。織田信長に派遣され、近くの太田本郷城を居城とした斎藤新吾の娘が皮膚病にかかり、医薬の効果もないので、刀尾権現に祈願したところ、権現が枕元に現れ、お告げの通り霊泉を発見し、娘の病も治ったという。現在は枯れている。

 


▲刀尾(たちお)神社。立山禅定道をたどる登拝者は必ず参拝したという。

 


▲並んで建つ刀尾寺。石碑の慈興上人とは、立山を開山した佐伯有頼のこと。

 


▲太田本郷城跡。

 


▲加賀藩の奥山廻役を務めた浮田家の役宅。

 


▲曹洞宗慈眼山正源寺。1580年頃、常願寺川氾濫防止の祈祷寺として建立された。佐々成政、加賀藩主、富山藩主の尊信を集め、水防の守護として領民から厚く信仰された。

 


▲いたち川取水口。


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