富山藩・幕末三大事件
富山藩では、幕末、3つの大きな事件が起こった。「蟹江監物一件」、「富田兵部一件」、「家老山田嘉膳殺害一件」である。
■蟹江監物一件
天保5年(1834)10月、家老蟹江監物を筆頭に、22名におよぶ家臣団の大処分が発表された事件。蟹江監物は、役儀指除け・隠居700石減知となった。
この一件は、財政難対策の一つとして実施した藩札発行をめぐる利権争いの中で起こったもので、十分の藩札を発行しようとする藩財政当局に対して、反対派の策動があったとみられる。
■富田兵部一件
安政4年(1857)4月、当時藩政を握っていた江戸詰家老富田兵部に突然帰国が命じられ、帰途の途中の駕篭の中で白装束で割腹した事件。
安政2年(1855)、富山町の大火で5000軒以上が焼失、藩の金融は大混乱に陥った(この時、10代藩主利保の隠居所・千歳御殿も焼失。門は残った)。富山藩内の江戸派(12代藩主利声、富田兵部)は家中の知行借り上げを推進するが、それを阻止しようとする富山派(実質上の藩政を執っていた利保、富山の藩士)と激しく対立していた。利保は宗藩主(加賀藩主)斉泰に直書を提出。これに基づき加賀藩が富山藩の内情探索を行い、利保に軍配をあげた。富田兵部が江戸で老中の阿部正弘に近づき、飛州高山五万石を富山藩の預領とし自ら飛騨の代官になるよう画策したり、阿部正弘の娘と利声を結婚させようとしていたことが加賀藩の怒りを買ったようである。利声は退隠させられ、利保が加賀藩から派遣された津田権五郎を迎えて政務を執ることになった。なお、利保の側室毎木氏(利声の実母)と富田兵部との密通の噂もあったという。
■家老山田嘉膳殺害一件
元治元年(1864)8月1日、家老山田嘉膳が城内大手の内濠近くで島田勝摩に殺害された事件。勝摩は、嘉膳と対立し年寄の地位を追われていた守旧派の滝川玄蕃に同調した5人のうちの一人。当時富山藩は利声が退隠させられ、宗藩(加賀藩)から幼少の利同を迎えて藩主とし、宗藩の管理下にあった。
参考:「富山藩」(坂井誠一著・巧玄出版)、富山市郷土博物館HP「博物館だより」、「名こそ武士」(佐多玲著・桂書房)