抜荷薬種を求めた薬種屋
大量の薬種が必要だった
今回も、『富山のセールスマンシップ 薬売り成功の知恵』(遠藤和子著・サイマル出版会)をもとに、富山売薬について、みていきたい。
日本全国の顧客を相手にしていた越中富山売薬は、大量の薬種(薬の材料)を必要とした。薬種のほとんどは漢方生薬で、中国から長崎会所(江戸時代に天領であった長崎に設けられた貿易機関)を経て輸入され、それを富山町の薬種屋が、大坂や江戸の薬種問屋、仲買人から買い求め、売薬商人に売りさばいていたという。
ところが、金銀銅の海外流出が激しくなり、幕府は貿易を制限するため、「定高仕法」(1685年)や海舶互市新例(1715年)を発令。これにともなって、唐薬種の輸入量も制約を受けた。
こうしたなか、売薬商人たちは、安価で大量に薬種を手に入れるため、長崎会所を経ないで流通する薬種に目をつけた。長崎会所を経ない貿易は、抜荷と言われた。
越後での唐物抜荷事件
天保6年(1835年)11月、越後国蒲原郡村松浜(現・新潟県胎内市)沖で、薩摩の廻船(港から港へ旅客や貨物を運んで回る船)が逆波を受けて難破した。この船には、普通の荷物の他、唐薬種や唐織物、べっ甲類など、禁制品の荷が40個余り積み込んであった。困った船頭と仲買人は禁制品を村松村の網小屋に隠すと船宿に身を潜め、遭難船には船頭に仕立てた者と水夫の4名だけが乗船していたように見せかけ、代官所に届け出た。
代官所の取り調べでは事なきを得たのだが、翌年になって禁制品を売ったことから足がつき、逮捕者が50名余りに上った。彼らは江戸送りとなり、江戸町奉行所の吟味を受け、天保10年3月、それぞれ獄死、遠島、追放、身代(財産)3分の2の取り上げ等の処分を受け、一件は落着したという。
これらの逮捕者の中に、富山町の貞三郎の手代、清五郎と、加賀藩領新川郡高月村(現・滑川市)高田清次郎弟、清三郎がいた。2人には次のような沙汰が下されたという。
〝不正の品物と知らなかったとはいえ、唐物抜荷についてはたびたびお触れが出ている。それにもかかわらず、新潟湊までやってきて、唐物・薬種類を買った。所持の分、並びに売りさばいた分の代金を取り上げ、罰金として五貫文を命ずる。〟
ちなみに、清三郎の兄、高田清次郎は、売薬商人たちの間で名の通った商人だったという。高田家は、代々高月村(現・滑川市)に住み、古くから売薬業を営んでいた。先祖、千右衛門は富山町の薬種屋、松井屋源右衛門のもとで働いた後、独立。「反魂丹屋千右衛門」を名乗り、宝永期(1704〜10年)、出雲売薬を手がけたという。その後、山陰や山陽、畿内方面に手を伸ばし、製剤した薬を近辺の売薬商人に売りさばく等、手広く商売をしていたのだという。
遠藤氏は、「高田清次郎は、大量の唐薬種の必要に迫られ、弟・清三郎に命じて新潟湊で買い付けをさせたのだろう」と分析されている。
薩摩〝藩営〟の抜荷
薩摩藩は、73万石の外様大名で、薩摩と大隅の2国に加え、日向諸県郡の一部、奄美諸島、琉球国を支配していた。薩摩藩による抜荷は、琉球を通してかなり早くから行われていたという。
琉球は慶長14年(1609年)、薩摩の島津家久に攻められて屈服し、貢納(みつぎものをおさめること)を強制された。一方、中国とは長年、冊封関係(中国に朝貢して王位を認められていた藩国)にあった。つまり、薩摩に支配されながら、中国とも朝貢交易(中琉交易)を行うという二重支配を受けていた。
島津氏は、この中琉交易のための資本を出資し、それによって、中国―琉球―薩摩という流通体制を手にした。そして、幕府から、琉球を通じて買い取ってきた唐物の中で、白糸と紗綾(絹織物の一種)だけは京都問屋で売りさばくことを許可され、残りは藩内消費に当て、他領への搬出を禁止されていたという。
ところが、薩摩藩第8代藩主(島津氏第25代当主)重豪の時、三女・茂姫が9代将軍・家斉の正室(御台所)となった縁で、重豪と嫡子・斉宣(第26代藩主)両隠居の生活費を得るという理由で、文化7年(1810年)、唐物8品目(年40貫)を5カ年に限って長崎会所で売ることを許可してもらい、これをきっかけに、それまでも密かに行っていた抜荷を活発に展開するようになったのだという。
富山町、茶木屋の抜荷
さて、新潟湊の唐物抜荷事件をきっかけにして、老中・水野忠邦は、各地にお庭番(隠密)を派遣。新潟湊の抜荷探索にあたったのが川村修就といわれ、その記録「御庭番内々遠国御用被仰付候廉書」は新潟での抜荷探索期間が空白になっているそうだが、天保11年9月に水野忠邦に提出された「北越秘説」は、各種状況証拠から川村修就の報告書とされており、その内容は、新潟湊の抜荷の実態をはじめ、湊の情勢、町政、さらに富山や信州路における抜荷にまで及んでいるという。この報告の後、一連の抜荷による不祥事件を理由に、長岡藩は新潟湊を幕府直轄領として上知(没収)され、経済的に致命的な打撃を受けた。
この報告書の中に、富山の抜荷として、「富山町の薬種屋、茶木屋(中田)清兵衛」が登場する。
〝富山町には薬種問屋が数百軒あり、これの頭取というべき豪商は、富山大町に住居している「茶木屋清兵衛」と申す者。召使いが300人もいる。このうち200人ほどは年々日本国中、売薬で回り、100人は家内にいて、それぞれ用向きを達している。右薬種問屋ども、近年は内密に申し合わせて合図を取り、両人ずつ300石積くらいの小船を2艘で、異国交易に出かけているという。積みこんでいる品は白布(上、中、下)、美濃紙半紙で、都で生紙を買い積むと、年々5月ごろから越中を出発し、隠岐や対馬の間を通って薩州沖まで出かけているという。(中略)夜中になると、200里ほど離れた沖を唐船が通過する。これを見て近づき、この大洋で持参した品々と唐薬種並びに朱とを交易する。〟
遠藤氏によると、抜荷探索で報告された藩や豪商らは揃って摘発され、処罰を受けているが、茶木屋清兵衛は摘発の網に引っかかっていないという。
理由として、11代清兵衛の時に、「薬種店員心得、16カ条」を定めており、その第15条に、〝(略)万一、止むを得ぬ事情で争い事などにかかわりあうようになった場合、当人は、当中田家から先般退職したという名目にして、自分だけの責任になるよう取り計らうこと〟とあり、店員らがこれを守り抜いたからである、と分析。もちろん、清兵衛は店員らに厳しい対応を求めた反面、それを補うだけの経済援助をしたのだという。























