楽聖滝廉太郎を偲ぶ(前編)

地域文化論 1988年4月号

富山大学名誉教授 植木忠夫

 名曲「荒城の月」の作曲者・滝廉太郎は、少年時代を富山で過ごしたので、ゆかりの地にぜひ銅像を建てたいと、九州人会会員の小田誠氏が、当時富山県の教育委員長の私(別府市生まれ)に相談のためご来宅下さってから10年になる。
 「それは、たき木を背負って本を読みながら歩いている二宮尊徳少年の姿よりも現代的で、音楽文化発展のためにも大賛成、大いに協力いたしたい」と音キチの私の心はおどった。以来同氏は、作歌者・土井晩翠の仙台、廉太郎少年出生地の東京、郷里大分県の竹田市や資料の多い大分市他各地へ足をはこばれて材料を集められた。
 そしてついに、生誕100年にちなみ、富山師範附属小学校跡地である丸の内堺捨旅館(現在のマンション堺捨)前庭で、九州人会会長・西泰三氏を建設委員長とする約10名の発起人(事務局長・小田誠)らによる幾度かの談合奔走により実行にこぎつけ、ようやく除幕式挙行を相成ったことは敬服の至り。銅像の原型は高岡市日本画府会員の彫塑(ちょうそ)家・南部祥雲氏、鋳造は高岡鋳芸社代表・堺幸山氏によって順調に仕上げられた。像の高さ約1.2メートル、常願寺川の川石を利用した台座の高さ約1.2メートルの上に建てられた。銅像は、ちょうど富山にいたころの肩ぬいあげのある筒そでの袴をはいた着物姿、「お正月」の歌にでてくるコマを手に持っている日本中唯一の廉太郎少年像である。
 除幕式は、命日にあたる6月29日の翌30日を記念して行なわれ、厳かな神事のあと、富山大学附属小3年生、橋爪治社長の孫にあたる恵子ちゃんの手で除幕され、風船打上げや、附属小学生30名による「荒城の月」の合唱、紅白のまん幕の張られた場内では列席された改井富山市長、大分県の佐久間・竹田市長(代理)、林勝次・富山大学学長らの祝辞が、西泰三会長の式辞につづいて述べられ、滝廉太郎のめいに当たる東京在住の筑紫文子さんの切々たる謝辞があった。おきよ会の会員も大勢出席して、いろいろの役割を受持っていたが、滝廉太郎と同県人であり、また東京音楽学校(現・芸大)の後輩にあたる富山音楽院・大沢多美子院長が同窓生として玉串を捧げられた奇縁もゆかしかった。式後は堺捨旅館の二階大広間でなおらいが行なわれて祝杯が挙げられ、九州人会の日刊工業新聞富山支局長・前田和彦氏によるマンドリンクラブの演奏や舞踊が催されたが、いずれも廉太郎作曲集から選ばれたものばかりで大変よい。〈5月号につづく〉

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