富山駅ができた経緯を振り返る

 もうすぐ富山駅の南北自由通路を通って、北と南を行き来しやすくなるという大きな節目を迎える。そこで、今回は富山駅ができた経緯を簡単にふりかえってみたい。
 明治25年の鉄道敷設法で北陸線が西から延びてきて、明治31年11月1日に金沢―高岡間が開通、翌年には高岡―富山間が開通した。明治32年3月20日には、田刈屋の富山地方気象台付近に最初の富山駅ができた。なぜその場所だったかというと、神通川の馳越線工事(当時は今の松川を右岸として蛇行しており水害が多かった。それを防ぐための直線化工事)の計画があったのと、各地で駅の誘致活動が行なわれていたため。どのような案があったかについては、富山市郷土博物館のホームページの「博物館だより」第27号をご参照頂くとして、富山実業協会が推していた愛宕・牛島村案が採用された。第一の理由は市街中心部に近いこと。第二の理由として、〝間接的に水害を予防することになる〟と述べている。神通川馳越線は、当初、本流が1丈(約3m)以上まで増水した際のみ水が流れる仕組みになっていたそうだ。これは、愛宕・牛島村および対岸の桜谷村を貫通していた農業用水を保護するためであった。富山駅がその場所にできれば、用水を撤去さぜるをえなくなり、1丈以下の水量でも馳越線に水を流すことができる、というわけである。こうして、明治41年10月、現在の場所に富山駅が誕生したのである。

※参考/富山市郷土博物館「博物館だより」第27号 富山市の鉄道100年その2富山駅開業、国立国会図書館デジタルコレクション「富山市経営策」(富山実業協会編、中田書店、明治34年11月)

 

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