旧富山市立図書館跡付近にある3つの胸像

松川沿いの旧富山市立図書館跡附近には、翁久允(おきな・きゅういん)、高見之通(たかみ・ゆきみち)、石坂豊一(いしざか・とよかず)の各氏の胸像がある。
それぞれの方の経歴を簡単に見てみよう。

【翁久允】
 明治21年2月8日、立山町六郎谷に漢方医の次男として生まれた。富山高校の前身・県立第一中学校に学んだが故あって退き、明治40年、19歳の時に志を抱いて渡米し、シアトルで様々な仕事をしながら学んだ。この時、夢破れた多くの日本人移民に出会った。また、働いていた家の老女から差別も受けた。つとに文筆に長け彼の地の紙上に健筆をふるい、大正10年には派遣されてワシントン軍縮会議に報道員としてのぞみ、大いに力を発揮した。大正12年に帰国して文筆活動に励み、のちに大阪朝日新聞に入り週刊朝日の編集局長として縦横の手腕をふるい、ひろく文壇の士と交わり自らも創作活動をおこなった。昭和11年、郷土研究誌「高志人」を創刊して38年にわたって精根を注いだ。一方、釈迦不動観音の仏徳を世に広めるため、三尊道舎をつくり、また新時代に卓抜した人材を送るべく奨学財団を興した。著書も多く、晩年、「翁久允全集10巻」を制作。また、その蔵書をすべて富山市立図書館に寄贈した。

 

【高見之通】
 明治13年3月27日、旧富山藩士高見之貫氏の長男として富山市木町に生まれた。東京帝国大学法科大学を卒業し、東京及び富山において弁護士の業務に就き、高い評価を得た。大正6年以後、代議士に当選すること7回、国政に参与し一党の領袖となり政界に重きをなし、25年勤続議員として国会から表彰された。日米開戦の半年前に渡米し、米国各地を回って宗教家らと面会を重ね、戦争の回避を訴えた。郷土にあっては富山県売薬同業組合長東岩瀬町長として地方の自治産業の発展に力を尽くした。また、印度に旅し佛陀の聖跡を探り、晩年敬虔なる宗教的生活に入りて独自の境地を開いた。昭和37年10月30日、83歳の天寿を全うするに当って従三位勲一等に叙せられた。

 

【石坂豊一】
 明治7年5月3日、滑川市で生まれた。富山中学を卒業後、神戸税関監吏補となり、その後、富山県下新川郡役所書記、富山県属第一庶務主任を経て、大正13年、50歳の時に、衆議院議員に初当選。以来、通算5期務めたが、昭和17年の選挙では非推薦となり、落選。昭和19年、70歳の時、富山市長に就任。昭和20年8月2日未明の富山大空襲の時には、市役所に向かっていたという。この時、防空壕に飛び込み、あやうく死を逃れた。市役所が焼けてしまったので、知事の許しを得て、県庁1階に仮事務所を置き、応急対策に当たった。昭和22年、73歳の時に参議院議員に初当選し、2期務めた。90歳の時、生存者として戦後初の勲一等瑞宝章を受けた。94歳の時には滑川市名誉市民に選ばれた。

参考/銘文、「富山県を築いた人びと」(富山社会科教育研究会編・旺文社)、Wikipedia、北日本新聞記事(2016年12月26日)


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