弓庄城(上市町)

土肥氏が居城し、佐々成政と攻防



▲弓の里歴史文化館の前方にある本丸跡の碑

 弓庄城は、南北約900メートル、東西約150メートルに及んだ城。城主は、源頼朝の功臣・土肥次郎実平を祖とする一族で、相模国(現在の神奈川県の大部分)土肥郷を本領としていたが、実平から5代目の実綱の時、滑川の堀江に入部し、越中で勢力を誇っていた上杉謙信の庇護のもと、新川郡一帯を領する戦国領主に成長。実綱から4代後の政道がここに城を築き、政忠、政良(繁)の3代が15世紀頃から16世紀にかけて居城とした。
 天正6年上杉謙信が死去すると、越中に侵攻する佐々成政、柴田勝家らの織田勢に従うことになったが、天正10年に信長が本能寺で討たれると、再び上杉勢に属したため、佐々勢の攻撃を受けることになった。天正11年、佐々勢と和議し、城を明け渡し、越後に逃れた。その後、上杉軍とともに越中に兵を送ったが、領地奪回はならず、越後に在住したという。
 なお、この舘・柿沢周辺地区は、平安時代から鎌倉時代には、井見庄と呼ばれる荘園だったが、土肥氏が統治するようになると、「功武の思想(武を貴ぶ思想)」から「井見」を「弓」と表すようになり、「弓庄」と呼ぶようになったという。
 昭和55年から5年間にわたって発掘調査が行われ、豪跡・土塁・建物跡・井戸などの遺構や、茶碗、鉄砲の弾、鍔などが見つかった。2003年に開館した弓の里歴史文化館でそれらの出土品を見ることが出来る。


▲歴史文化館内に展示されている弓庄城の復元模型


▲弓の里歴史文化館


▲城跡から掘り出された古鍔、槍、鉄砲の弾、茶碗等


▲しばらく登った裏手の山にある舘櫓


▲舘櫓からの富山平野の展望

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