舟橋にまつわる話
江戸時代から明治初期にかけて神通川に架かっていた舟橋(現在、松川に架かる舟橋はその名残)にまつわる話をいくつか紹介しよう。
▼舟橋の下には、巨大なカレイが生息していて、人が通ると反転して白い腹を上にしたため、腹が日光を反射して人は目が眩んで橋板を踏み外して神通川に落ち、その化けカレイに食われたのだという。
実際、昭和40年頃に、神通川鉄橋の近くで釣りをしていた人がカレイを釣り上げた事があったそう。
▼宝永5(1708)年秋、一頭の熊が舟橋に現れ、追ったところ川を泳いで富山城に侵入。鉄砲隊・足軽組など総動員して大騒ぎになり、野積村(現八尾町の山村)から猟師を呼び寄せてやっと退治できたという。野積村の熊突徳兵衛には褒美として銀二十目が与えられたとか。
▼現在、舟橋のたもとには、常夜灯があるがこれは寛政11(1799)年に、富山の町年寄であった内山権左衛門が寄進したものだそう。台座には「両宮伊勢太神宮」と刻まれている(両宮とは、伊勢神宮の内宮と外宮)。一方、森林水産会館右側に立っている対岸(北岸)の常夜灯には、「金比羅大権現」と刻まれている。廣瀬誠氏によると、これらの刻字から、往時の富山の士民の信仰がうかがわれるという。
ちなみに、伊勢神宮の分霊を祭る神明宮・神明社は富山県下に700もあって、他県に比し、ずば抜けて多いそうで、多分日本一であろうとのこと(隣の石川県はわずか30数社)。
▼舟橋は歌にも詠じられている。
内山逸峰(宮尾の人で、十村役を務めた)は、『長岡八景』に、「船橋夕照」として、「からにしき洗ふなみまの袖なれや、夕日にそめてわたる舟橋」と詠んでいる。
また、九代藩主利謙の生母・佳子(自仙院)は、『桜谷八景』に、「舟橋夕照」として、「山の端も波に入日のかげさして、まぶゆく渡る越の舟はし」と詠んでいる。
尊王攘夷の志士として活躍した頼三樹三郎(頼山陽の第三子)も、嘉永元(一八四八)年に越中を通過した時に、「鉄鎖江に横たひて万丈長し 急流矢の如く響琅々たり 五更、鴉唱いて人蹤白し 六十四梁、舟板の霜」という七言絶句を作った。この詩が刻まれた碑が、北岸の常夜灯そばにある。
参考文献:「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著・桂書房)、富山市郷土博物館「博物館だより(第二十九号)」「長岡の郷土史」(長岡の郷土史編さん会)