古代まで遡る?鱒の鮨献上の歴史

 富山名産、鱒の鮨。そのルーツは鮎の鮨で、鮎の鮨は、富山藩士・吉村新八が創製し、三代富山藩主・前田利興が賞美し、将軍吉宗に献じたところ激賞され、やがて富山藩から徳川幕府への年々の献上物になったということはよく知られている(ちなみに、この時の鮎の鮨は、遠路江戸まで届けるので、十数日も漬け込んだ馴れ鮨であった)。
 さて、『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著・桂書房)によると、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)である『延喜式』(延長5年〔927〕完成)の中男作物(17歳から20歳までの男に割り当てられた貢納物)の品目を見ると、北陸道の諸国で鮭鮨を記されたのは越中国ただ一国であるという。鮭の鮨が現物納租税、つまり越中の特産物として古代から知られていたのである。
 なお、著者の廣瀬さんは、「はるか後世の鱒の鮨と思い合わせ、興味深い。(中略)鱒も鮭も同類の魚であるから『延喜式』の鮭鮨も、もしかしたら鱒であったかもしれぬ。とすると、越中の鱒の鮨献上の歴史は古代まで遡るわけだ」と述べておられる(こちらも、遠路都まで届けるので、早鮨ではなく、馴れ鮨)。
 この鮭(鱒?)もおそらく、神通川で捕れたものと思われる。神通川は、戦前(明治時代)、長良川と共に皇室の「御猟場」にも指定されるほど、「川の幸」の宝庫だった。
 ちなみに、長良川は鮎・鯉の2種だが、神通川は鮎・鱒・鮭の3種に及んだという。
 神通川と鮭については、次のようなエピソードも紹介されている。
 明治11年、明治天皇が北陸巡幸のとき、船橋を渡られたが、そのおりに、網を打って鮭漁をお目にかけた。ところが獲れた鮭を見ると、縄の痕がついている。万一鮭がかからなかったらと、あらかじめ捕らえた鮭をしばって網に入れておいたからである。天皇は不審そうに「この縄目はどうしたのか」と尋ねられた。随従の歌人・高崎正風がとっさの機転で「封建時代にしばられていた人民も、いま聖代の自由に浴して喜んでおります。鮭も同じことでございましょう」と申し上げたところ、天皇は機嫌良くお笑いになり、役人も漁師もほっとしたという。

参考/『神通川と呉羽丘陵 ふるさとの風土』(廣瀬誠著・桂書房)

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