木曽義仲に側近として仕えた 今井兼平の墓(滋賀県大津市)


 今井兼平(かねひら)と言えば、兄・樋口兼光(かねみつ)、根井行親(ねのいゆきちか)、楯親忠(たてちかただ)とともに木曽四天王といわれた人物。木曽義仲の養父・木曽の豪族・中原兼遠(かねとお)の子で、義仲とは乳兄弟の間柄。また、『源平盛衰記』によれば巴御前(ともえごぜん)の兄とされる。俱利伽藍峠の戦いでも義仲と共に戦った。
 粟津の戦いで義仲が討たれたことを知ると、自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降り自害したという話は、謡曲「兼平」の素材となって語られてきた。
 墓は、JR石山駅の北西200m、盛越川(もりこしがわ)のほとりに立つ。
 ちなみに、義仲の墓は、ここよりもう少し北側の「義仲寺(ぎちゅうじ)」にある(2014年6月号で掲載)。
 さて、最後の場面をもう少し詳しく見てみよう。信濃国で平家打倒の挙兵をした義仲は、数万騎を率いて京に入ったが、皇位継承をめぐって後白河法皇と対立。義仲軍が備中国水島の戦いで平家軍に大敗すると、後白河法王は義仲を見放し、鎌倉の源頼朝に接近。起死回生を図った義仲は院御所の法住寺殿を攻撃、後白河法皇を幽閉して政権を掌握。頼朝追討の院宣を発出させ、義仲は征夷大将軍にも任命された。しかし、頼朝は近江まで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた。義仲軍はその頃には千騎余りに激減。義仲は、今井兼平に瀬田を、根井行親、楯親忠に宇治を守らせ、自身は院御所を守護。その後、範頼が瀬田を、義経は宇治を攻撃。義経軍は、宇治川を突破し、京へ突入。義仲が出陣し、義経軍と激戦。義仲は奮闘するが遂に破れ、今井兼平と合流すべく瀬田へ、合流に成功。義仲は北陸への脱出をはかるが、次々討たれ、義仲も遂に顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害した。

■参考/Wikipedia、「滋賀・びわ湖観光情報」サイト、他





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