今の仕事に出会えた不思議

磯野敏雄事務所
代表 磯野 敏雄さん

 

思いがけない出会い

 工業高校を卒業後、富山を飛び出し、東京の建築設備工事の会社で、厨房、暖房などの配管工事に携わっていた磯野さん。
 「建築設備というのは辛い仕事ですよ。鳶職、左官屋さん、大工さんによくいじめられたもんです」
 2年半程経って、母親からどうしても帰ってきてほしいと言われて、富山に戻ることに。4月1日から薬品会社の営繕課に勤めることになっていたが、3月の半ば過ぎに、磯野さんのことを小学生の児童クラブの頃からよく知っている町内会長さんが訪ねてきた。
 「『磯野さん、勉強と仕事を兼ねてできる、あんた向けの仕事がある。まぁちょっとのぞいてみられ』と言われまして」
 連れて行かれたのが、当時、富山県で一番大きな司法書士事務所の今井武男事務所だった。
 「行ったら、わらが飛び出てるようなうぞいわら半紙を出されて、すぐ試験でした。おそらく、入りたくて来たと思っておられたんだけど、僕はちっともその気はなかったんです」
 論文調の質問は、「基本的人権について述べよ」「権利と義務について述べよ」の2つ。漢字をかなに変える質問では「相殺」があった。
 「それから、『薄利多売を漢字で書け』とかね。僕は、基本的人権や権利と義務については、『こんな半分の用紙で、しかも悪い紙で、あまりにも簡略すぎる。もっと書けるようなスペースを取ってください』と書いて出したんです。そしたら、今でも忘れませんが、奥へ入って行って、ものの5、6分経ったかな。『明日から来なさい』と言われて。就職しに来たわけでないのにと、びっくりしました。お客さんがみんな、〝ありがとうございます〟と感謝していかれるのを見て、(職人さんから)ペンチを振り回されて逃げていた環境とまるっきり違うな、こんなありがたい仕事もあるんだなと、初めて知りました。その時は、登記の「と」の字も知らなかったんですから。『こんな喜ばれる仕事、どこにある?俺はこの道で行く!』と、その時決めました」

 

85歳の今も現役で活躍

 21歳の春だった。その後、5年後に試験を受けると決めていたが待ちきれず、4年目に挑戦。無事受かり、その後も毎年、資格を取得していった。その若さで取ったのは、富山県で初めてだったという。
 「今の仕事に出会ったのは、本当に半月の間の出来事です。これが人生なんですよ。僕はやっぱりよかったなぁと思います。それまでの仕事とは天と地の違い。一生涯の転換期ですよ。人生というのは何があるかわからないものです」
 その後、県司法書士会副会長、日本司法書士会連合会理事、成年後見センター・リーガルサポート県支部長などを歴任。平成21年、黄綬褒章を受章している。
 「友達には本当に恵まれてます。友達に恵まれなかったら、自分自身が育ちません。友達と切磋琢磨することによって育てられるんですね」
 85歳の今なお、現役で活躍するため勉強を続ける磯野さんである。 

 

年老いるとは、朽ち果てることではなく、熟成することである―― 日野原重明

艱難に会ってはじめて真の友を知る―― キケロ(哲学者)

青春の夢に忠実であれ―― シラー(ドイツの詩人)

 

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