藤森秀夫と神通川
『神通川と呉羽丘陵』(廣瀬誠著、桂書房)では、旧制富山高校のドイツ語教授として23年間、富山に滞在した藤森秀夫の目を通し、神通川ののどかな砂利掘風景と富山大空襲の修羅場が対比させて紹介されている。
著者の廣瀬誠氏(1922〜2005年)によると、かつて神通川には砂利掘り労働者が川底の砂利を掻き取り、これを小舟に積んで往き来しており、廣瀬氏も少年時代からよく見なれた光景であったという。
藤森秀夫の詩謡「神通磧」(詩謡集『稲』 昭和4年)は、その労働生活を歌ったそうだ。
神通磧の砂利掘人夫、砂利で飯食うたァ俺がこと。俺らは早瀬に砂利舟つなぎ、綱をたよりの水かせぎ。
(中略)捨小砂利でも神通の石は俺らが一家の飯子種。
「それは辛い労働であったろうと思うが、砂利を掻く音が川音にまじって遠くからリズミカルに響き、砂利を運ぶ川舟の往きかいも神通川の一点景として、のどかであった」と廣瀬氏。なお、砂利採取はその後、法律で禁止されたという。
藤森さんは富山市桃井町に住み、昭和20年8月に富山大空襲にも遭遇し、桃井町から神通川近くの田んぼまで逃げ、泥水をかぶって生きのび、その恐ろしい体験を散文詩ふうの「戦禍の富山」に書きとどめた。その一節を廣瀬氏は紹介している。
やっと田圃のある所まで落ち延びた。 神通川の堤の木立に点火して燃え出した。生木がよくものすごく燃えるものだ。為に田の水も空を映して明るい。縁に蹲居む人の群。その群をわけて進む、怒号が飛ぶ。立つな、立つなの声。私は堪りかねて、水の中へ飛び込んだ。
(中略)花火と続く焼夷弾の釣瓶落し、急降下爆撃、それから私はもう完全に泥の中に横臥した。水中から頭部だけ浮かした。
(中略) 爆音、又爆音、さくれつ音、(以下略)
「昭和4年の砂利掘り仕事の平和な詩情とは、まったく別の地獄の世界がここに現出したのであった。この惨憺たる修羅場も、神通川の歴史の一ページとして、後の世まで言い継ぎ語り継ぐべきであろう」と廣瀬氏は述べる。























