滝廉太郎記念館から 富山の歴史・文化を発信!

滝廉太郎記念館 開館25周年記念
グッドラックとやま2018街づくりキャンペーン

 


 23歳10カ月という短い生涯の中で、『荒城の月』『花』など数多くの名曲を作曲した滝廉太郎。彼が少年時代の約2年間、富山城内にある小学校へ通っていたことは、県民市民にほとんど知られておらず、弊誌では約30年前から顕彰活動を進めてきた。
 平成5(1993)年9月、滝廉太郎が学び遊んだ小学校跡に隣接して建つマンションの5階1室に「滝廉太郎記念館」をオープン(現在は松川茶屋内へ移設)。偉大な作曲家と富山の豊かな自然の関わりをテーマにし、県内外から関心を集めた。
(「グッドラックとやま」1993年9月号掲載座談会を再編集)

 

 

座談会参加者
(役職は1993年当時のもの)

森谷義一さん(富山県観光連盟 事務局長)
新田嗣治朗さん(日本海ガス社長)
諏訪 求さん(JTB富山支店 支店長)
牛島政信さん(うしじま社長)
水間直二さん(近代史研究家)
和地典子さん(’93ミス富山)

 

司会
中村孝一(グッドラックとやま発行人)

 


▲富山市丸の内に建つ、滝廉太郎の少年像。

 

テーマは“富山の四季”

司会 先日、日本テレビ系のテレビ番組「知ってるつもり」にて滝廉太郎が特集されました。廉太郎の富山時代に関しては、私どもの方から資料をお送りしたわけですが、今まで取り上げられなかった富山に、わずかながらも光が当たったことは大きな前進だと考えております。
 さて、文化都市を目指す街に必ずあるのが、ゆかりの偉人を偲ぶ記念館です。廉太郎は自然の美しさを表現した曲を数多く作曲していますが、四季折々の自然美を味わえたのは何と言っても富山時代。中でも雪景色を見ることができたのは富山だけで、その時の経験が『雪やこんこん』『お正月』などの曲となって現れています。
 そこで、このたび開館する「滝廉太郎記念館」は小さなものではありますが、「富山の四季が育んだ滝廉太郎の世界」をテーマとしてみました。
 この記念館が、少しでも歴史と文化の街・富山のイメージアップに役立てばと考えているわけですが、皆様のご意見をお願いいたします。

 

富山市中心部の観光名所の一つに!

諏訪 「滝廉太郎ブロンズ像建立募金」や「滝廉太郎祭」の開催などによって、市民の意識も徐々に高まりつつあります。この松川べり一帯は、県庁、市役所、城址公園などのある富山市の中心であるとともに、シンボル的な存在にもなっています。観光客は、ここで少しでも立ち寄る場所がほしいわけです。その点、この「滝廉太郎記念館」は、非常に魅力のある施設となるでしょうね。
 旅行会社の立場から申し上げますと、「滝廉太郎記念館」も契約していただくことによって、全国にコンピューターで登録できますので、観光コースにも組み込まれていくと思います。

新田 富山市は観光名所が少なく、特に中心部は松川の遊覧船ぐらいで、見どころがほとんどありませんね。そこで、文化と観光の面から滝廉太郎のブロンズ像を作り、名所を増やしていこうと努力しているわけです。しかし、民間だけでは力が限られていますから、行政サイドでももっと力を入れていただければと思いますが…。
 この「滝廉太郎記念館」も、市などの助力でさらに充実したものになればいいですね。

 

音楽家を育んだ歴史と風土を見直す

司会 ウィーンには「モーツァルト記念館」を始め、「ベートーヴェン記念館」「シューベルト記念館」など有名な作曲家の記念館がたくさんあり、「音楽の都」としての歴史と香りを感じさせてくれます。「富山ってどんな街ですか?」と聞かれた時に「滝廉太郎が少年時代を過ごされ、後の数々の名曲誕生に大きな影響を与えることになった、四季の自然が美しい街ですよ」と答えれば、街の歴史の中に音楽家を育んだ風土があるんだなあということで、情緒ある街のイメージを一挙に高めていくことができると思います。

和地 私たちは富山のPRに全国各地へ出かけますが、「自然が豊かで食べ物の美味しい街」というのが主なキャッチフレーズです。逆に、富山市の歴史やゆかりの人物については、ほとんど触れないのが現状ですね。
 記念館の開館は、富山の歴史上の人物として滝廉太郎さんを再確認する重要な意議があると思います。具体的なものがあれば、私たちもPRしやすいですし…。是非たくさんの方に来ていただいて、富山の歴史を再発見してほしいと思います。牛島 訪れた人々が、『荒城の月』のモデルは富山城ではなかろうか、と想像をかき立てられるような、ロマンある記念館になればいいですね。

 

没後100年に向けさらなる展開を!

諏訪 私は九州にいたこともありますが、四季折々の美しさという点では、富山が断然勝っています。この点は竹田市よりも強いと思いますね。
 ところで、ヨーロッパなどでも観光の目玉として早く売り出したものが勝ちです。特に歴史上の人物は、それが大きいかもしれません。滝廉太郎に関しても、先に名乗りを上げた大分県竹田市のイメージが根強いですが、記念館の開館などで、少しずつ変わってくると思います。今年は没後90年ということですから、10年後の没後100年に向けて、どんどん盛り上げていけば良いのではないでしょうか。

水間 富山市民はふるさとの歴史をあまり重視しない傾向があり、大変残念に思っています。これといった観光名所がないのは、そういった市民性によるのかもしれません。滝廉太郎に関しては、絶対に富山でイメージを得たと言える『雪やこんこん』などの曲があるわけですから、この機会にぜひゆかりの人物として認識を深めていただきたいと思います。

司会 この「滝廉太郎記念館」は滝廉太郎が少年時代に学び、遊んだ小学校跡に立つマンションの5階に開館いたします(現在は松川茶屋内へ移設)。当時、そこに小学校があったという歴史を知ることも、訪れる人々にとって、非常に想像力をかき立てられるのではないでしょうか。

 


▲富山城址公園内松川茶屋内の一室にある滝廉太郎記念館。北陸新幹線車内で配布される冊子「西Navi北陸」2018年11月号の特集記事「文人・偉人たちの北陸 」ページでは、滝廉太郎と当記念館が紹介された。(掲載内容は、JRおでかけネット・西Naviページ《リンク》からご覧いただけます)

 

“歴史と文化の街・富山”でイメージアップ

森谷 富山には、観光の要素がたくさんあります。豊かな自然、新鮮な味覚、祭り、そして伝統産業や近代産業などです。しかし、先ほどからご指摘のある通り、富山のイメージアップに繋がる、歴史上の人物をクローズアップするという一面を忘れていたんですね。
 市のイメージアップ作戦の一つとして滝廉太郎を取り上げることは、〝歴史と文化の街・富山〟を印象づける上で有効な手段だと思います。市政110周年などの記念事業などに取り込んでもらえば、さらに充実した記念館を作ることも可能ではないでしょうか。
 また、竹田市にある記念館と連携してイベントを行えば、お互いに相乗効果を期待できると思いますね。

司会 竹田と富山の記念館がそれぞれ特徴を出し合って、共に滝廉太郎を顕彰していくことが大切でしょうね。「滝廉太郎記念館」の開館が、「歴史と文化の街・富山」のイメージアップに少しでも役立つことができれば、本当に素晴らしいと思います。そして、竹田と富山の記念館同士で姉妹提携できると良いですね。

 


▲滝廉太郎が通っていた小学校は、旧富山城内にある富山県尋常師範学校(矢印)に付設されていた。
 「市街見取全図 明治18年」(富山市郷土博物館蔵)より

 

― 滝廉太郎 年表 ―
1879(明治12)年 8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。
1882(同15)年 11月 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886(同19)年 8月 父が富山県書記官に栄転となり、富山市に転居。
9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1887(同20)年 2月 父が富山県知事代理となる。
1888(同21)年 4月 父が非職を命じられる。
5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889(同22)年 3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890(同23)年 5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891(同24)年 11月 父が大分県直入郡長に転じる。
12月 一家、豊後竹田へ転居。
1894(同27)年 5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
9月 東京音楽学校(予科)へ入学。
1895(同28)年 9月 同校本科へ進学。
1898(同31)年 7月 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899(同32)年 9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900(同33)年 6月 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。この年、「荒城の月」「花」を含む組曲 「四季」 「箱根八里」 「お正月」など、多数作曲。
1901(同34)年 4月 ドイツ留学へ出発。
10月、ライプチヒ王立音学院入学。
1902(同35)年 10月 病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903(同36)年 6月29日 病死。(23歳10カ月)

 

富山と大分での主な滝廉太郎顕彰活動

1979(昭和54)年 6月 富山県九州人会が、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山市丸の内1丁目の堺捨旅館(現・マンション堺捨)前に、滝廉太郎の少年像を建立。
1988(同63)年 1月 中村孝一が大分県竹田市を訪問、岡城を視察。
同年4月 松川遊覧船の就航にあたり、松川(当時は神通川)べりの尋常小学校へ通っていた滝廉太郎にちなみ、船を「滝廉太郎丸」、「荒城の月丸」と命名。テーマ曲に「荒城の月」「花」などを選ぶ。
1989(平成元)年 1月 『グッドラックとやま』発行人・中村孝一が〝「荒城の月」のモデルは富山城だ〟の新説を『グッドラックとやま』2月号に発表。全国のマスコミにも大きく取り上げられる。
同年9月 全国タウン誌会議富山大会で、創作劇「荒城の月と富山城」を上演。参加者から「埋もれていた宝の発見」と評価を得る。
1990年(同2年)11月 「荒城の月のモデルは富山城」との説が、小学館発行「日本大百科全書」に掲載されることが決定。
1991(同3)年 2月 中村孝一が富山県内の文化・経済界および行政関係者に呼びかけ、「滝廉太郎ブロンズ像建立委員会」を設立。(委員長/新田嗣治朗氏)
1992(同4)年 4月 大分県竹田市に「滝廉太郎記念館」オープン。
1992(同4)年 8月 富山県民会館にて「第1回滝廉太郎祭」を開催(以後、毎年開催)。〝荒城の月誕生のロマンを探る"と題し、シンポジウムを行う。「荒城の月」の詩のモデル・鶴ヶ城のあるタウン誌『会津嶺』とグッドラックが姉妹提携。
1993(同5)年 9月 没後90年に富山に「滝廉太郎記念館」オープン。
1994(同6)年 4月 松川に大型船「滝廉太郎Ⅱ世号」が就航。
1997(同9)年 10月 中村孝一がNHK大分で、「滝廉太郎特集」の番組に出演。竹田と富山の記念館同士の姉妹提携を提案。
2002(同14)年 11月 中村孝一が大分県日出町の「滝廉太郎記念講演会」で講演。この講演がきっかけで、「滝廉太郎祭」が始まる。
2003(同15)年 9月 滝廉太郎の没後100年と神通川直線化100年を記念し、松川べりにて「リバーフェスタ」「川と街づくり国際フォーラム」を開催。"水と音楽の都"を目指す。
2011(同23)年 3月 『グッドラックとやま』創刊400号を記念し、特集「滝廉太郎来富125周年記念 滝廉太郎と富山」を掲載。
2016(同28)年 6月 「滝廉太郎研究会」が発足。

 

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