富山の歴史を活かしテーマのある公園を!

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富山市では今年度、富山城址公園の様々な利活用の可能性や潜在的な需要などを探るため、「富山城址公園パークマネジメント推進事業可能性調査」を開始した。
弊誌では、1984(昭和59)年7月号より35年間にわたり、富山城址公園に着目し、富山のシンボル空間としてのテーマを持った整備を提案してきたが、その内容を改めて振り返ってみたい。

 

公園に求められる役割とテーマ

 「公園を見ると、その街の文化度が概定できる」と聞いたことがある。確かに公園というものの中には、市民がその心の成長の過程で影響を受け得る多くの要素を含んでいるかもしれない。
 例えば、自然に親しみ、その美しさや優しさに感動することによって培われる思いやりや、その街の歴史に思いを馳せる探究心、公園で憩う心のゆとり等、公園の存在が人に与えるものは計り知れない。
 6つのテーマを兼ね備えるところからその名があると言われる金沢の「兼六園」は、その公園を愛する人たちで結成した懇話会によって戦後の荒廃から脱したという。
 「兼六園懇話会」と称するその会に属する人々の、まず市民が憩える公園をという心が、現在のような名園に復帰させたと言って過言ではないだろう。そして、その過程においては、〝公園のテーマ〟という基礎理念があったことも特記すべきである。

 

富山城址公園にふさわしいテーマとは

 〝公園のテーマ〟とは何か。公園についての考察は、多様なようでいて、実はある程度絞り込んでいける性質のものと言える。なぜなら、多機能すぎることは分散を意味し、公園としての魅力の半減につながるからだ。
 テーマを統一する以上、何をテーマとするかが課題となるが、様々な意見が様々な立場から提案される。弊誌では35年前、富山市中心部の「富山城址公園」を富山のシンボル公園にしようと問題提起。そのふさわしいテーマについて、市民にアンケート調査を行ったところ、日本庭園を望む声が84%を占めた。
 日本庭園とは、日本人が太古から受け継いできた文化の一つの結集といえるものである。それは四季の移ろいの中に栄枯盛衰の論理を見る、日本人の独特の感覚が盛り込まれた名園が各地に現存し、人々から親しまれていることからもわかるだろう。日本庭園とは、心にしみ込む情緒を感じさせるのである。
 その街の持つ歴史性は、同時に市民にとっては祖先の歩みであり、生活に最も近い文化であるはずで、それは伝統として受け継がれているのである。その伝統を形状化し、公園に反映させることが文化の街を具現化する上で最も着目されるべき点ではなかろうか。培ってきた文化を歴史の基盤にしてこそ、市民の求める憩いの公園は賑わいを見せ、親しまれるのではないだろうか。
 この観点で見てみると、富山城址公園はどうだろうか。多機能すぎると言われるこの公園だが、その理由を詰めて考えると、所在の利便性に尽きるかもしれない。何かを企画運営する際の好立地に加え、大勢が集える収容能力もある、となれば利用価値は大である。しかし、そのイベントや祭りは一過性のものに過ぎない。
 平成以降の富山城址公園に関する動きを紹介すると、平成元(1989)年に松川べりに小さいながらも本格的な日本庭園「親水のにわ」が完成。その前年には松川遊覧船が運航を開始しており、船上からの眺めにも彩りを添えることとなった。(松川遊覧船の乗り場を兼ねた松川茶屋は平成4年オープン)
 平成10(1998)年に、富山市が南側の堀周辺と芝生広場の再整備に着手。その後、千歳御門の移築(平成19年)、日本庭園の完成(平成27年)、富山市本丸亭(平成28年)、富山市まちなか観光案内所(平成30年)と新たに施設が増え、現在は松川周辺エリアの整備について検討中である。
 弊誌がアンケートを行った当時に比べ、多くの要素が盛り込まれてきた現在の富山城址公園だが、先ほど述べたような〝公園のテーマ〟が明確になっているとは言いがたい。
 一方、全国で名園と言われる公園はその土地の城主の趣向をテーマとして造られた庭園というのが比較的多く、さらに郷土出身の文化人がメインテーマという公園もある。共通しているのは、その街が培ってきた歴史、それに絡む人物を中心としたストーリー性と、造園の創意工夫から垣間見える街を思う市民の心ではないだろうか。

 

富山ゆかりの作曲家滝廉太郎をテーマに

 富山城址公園のテーマとして、弊誌が当初より一貫して提案しているのが、富山ゆかりの作曲家・滝廉太郎の名曲「荒城の月」をモチーフとした公園である。滝廉太郎は官職にあった父の転任で、7才から9才まで富山で過ごした。その頃の富山城付近の様子を、弊誌主催の座談会(1989年3月号掲載)にて郷土史家の八尾正治氏は次のように述べている。
 「(富山城址公園は)荒城に近い佇まいだったと思われます。廃藩置県になり、城は無用の長物となり、二束三文で売り出した時代です。おそらく滝廉太郎も荒れ果てた城郭の中での生活であったろうと考えられます。正確には今の富山城は元の城ではなく、石垣なども部分的に積み替えたはずです。外堀も埋められておらず、城内に官舎や県庁などもあり、広大なものでした。松川も当然、神通川だったわけです」
 滝廉太郎の生い立ちや情操に多大な影響を与えた、当時の荒れ果てた富山城址。彼の脳裏に刻まれたものが後に『荒城の月』や『雪やこんこん』『花』『お正月』などの曲の中に現れ、現代に受け継がれているのだ。
 このように滝廉太郎の楽想に影響を与えた富山城址公園一帯を、彼の代表作である『荒城の月』をテーマとした日本庭園として整備することはできないだろうか。この公園に来て、日本人の魂を謳ったと言われる『荒城の月』を聴く時、誰もが日本人である誇りを感じる——そのようなメインテーマを持った公園づくりが必要なのである。
 四季折々に小川が流れ、滝が落ち、池がさざ波を立て、街の中心部にいることを忘れさせる豊かな自然が、訪れる人を温かく迎えてくれる。そんな日本庭園を、『荒城の月』のふるさととも言われる、ここ富山市中心部に造ったらどうだろうか。

 

街の歴史を活かした公園を

 富山でしか味わえない文化、そこにしかない公園に惹かれ、富山を訪れる観光客が増えることによって知名度が上がり、街に潤いが増す。潤った街にはゆとりが生まれ、市民は街に誇りを持つようになるだろう。
 そして、このような公園の整備に加えてもう一つ重要なことは、市民が街を想う心である。街やそこに住む人々は、一朝一夕に変わるものではない。長い歴史を生きてきた背景が街のイメージとなって受け入れられているものである以上、その背景に文化性や歴史性を伴わないものはやがて飽きられるに違いない。
 今後、富山城址公園で街の歴史に基づいたストーリー性を持つ公園整備が進められていくことを期待したい。

 

“過去をより遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見通せるだろう。
–ウィンストン・チャーチル”

 

▼平成元(1989)年に完成した松川べりの「親水のにわ」を行く松川遊覧船。背景に東屋、赤い太鼓橋が見える。

 

▼富山城址公園内「松川茶屋」の一角に設けられた「滝廉太郎記念館」。昨年、北陸新幹線車内で配布される冊子「西Navi北陸」の特集記事にも掲載され、話題を呼んだ。

 

▼市内中心部にいながら、富山の自然・歴史・文化を満喫できる松川べりのテラス。

 

 

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