富山城址公園を「荒城の月」をテーマとした自然あふれる日本庭園に!

グッドラックとやま街づくりキャンペーン

 

 富山市中心部のオアシスとして重要な役割を果たしている、富山城址公園。今後、富山の歴史・自然・文化に根ざした整備を行うことで、さらに市民・県民の心の拠り所となるのではないだろうか。
 弊誌では少年時代を富山城下で過ごした滝廉太郎に着目し、名曲「荒城の月」をテーマとした公園づくりを提案しており、今後の整備計画が注目される。

 

富山城址公園に求められるもの

 県都・富山市の核として、賑わいのある魅力的な空間づくりが求められている富山城址公園。弊誌はこれまで、平成3(1991)年に地元有志に呼びかけて「富山城址公園整備懇話会」を発足させるなど、富山城址公園のあり方について様々な提案を行ってきた。その中で次第に明確になってきたのは、富山城址公園を富山を象徴するような、「富山ならではのテーマ性がある公園」として整備する必要性である。
 そのためには、公園の中に街の歴史や文化、自然など独自の特性を有効に取り入れることが大切になってくる。『アメニティ・デザイン―ほんとうの環境づくり』(1992年・学芸出版社)の中で、造園学者であり公園デザイナーの進士五十八氏は、次のように述べている。
 「ユニークな公園とは、二つとない『唯一無二の』公園ということだ。公園は、敷地条件はもとより自然的・社会的条件がすべて違う場所につくられる。必然的に『一品生産の空間』となる。また、一品だけの『わがまちのわが公園』だからこそ、住民のリージョナル・アイデンティティ『地域らしさ』となり得るのである」

 

富山城の栄枯盛衰と滝廉太郎の「荒城の月」

 それでは、富山城址公園ならではの特性とは、いったいどのようなものだろうか。まず、その由来となった富山城の歴史を簡単に振り返ってみよう。

 戦国期、神保長職によって築城された富山城は、武将たちの権力闘争の場となり、上杉勢、一向一揆勢、在地豪族らによる争奪の後、織田信長の家臣・佐々成政の居城となった。その後、天下統一を目指す豊臣秀吉の10万の大軍に包囲されて、落城。
 江戸初期に加賀前田家の所有となり、加賀藩の分藩として富山藩が成立すると、初代藩主・前田利次が富山城を再建し、城下を整備した。以後、越中富山前田氏13代の居城となったが、明治の廃藩置県により廃城となった。
 その後、本丸御殿は明治32年に焼失するまで県庁として利用されており、明治19年に富山県書記官に任命された滝廉太郎の父・吉弘の勤務地でもあった。この時、廉太郎は旧富山城内にあった富山県尋常師範学校附属小学校に7〜9歳まで通っている。
 また、富山城の天然の外堀として流れていた神通川は、越中最大の通商路として賑わっていたが、度重なる洪水により、明治後期から大規模な改修工事を開始。当時の川筋は、今も富山城址公園の横を流れる松川によって知ることができる。
 昭和20(1945)年の富山大空襲では爆撃目標の中心となり、周囲が焼け野原になるが、終戦後には都市計画公園「富山城址公園」として、開園。敷地一帯で富山産業大博覧会が開催され、記念に建てられた模擬天守の富山城は、街のランドマークとなった。

 このように、富山城址公園一帯は富山が辿ってきた歴史を凝縮した場所であり、「地域らしさ」が詰まった空間であることがわかる。さらに、神通川の名残りである松川が公園のすぐ横を流れていることで、非常に潤いや安らぎのある空間となっていることも、大きな魅力の一つだ。
 他の有名な公園と比較して「狭い」と言われることも多いが、これは城址公園がいかに未完成であるかを示しているとも言える。『人間のための公園』(1976年・ベン・ホイッタカー、ケネス・ブラウン著/鹿島出版協会)では、敷地の広さと公園の魅力の関係について次のように述べられている。
 「よい公園を造るには、利用者の心に留まるような独自性あるいは特徴を持たせることに加えて、周囲の輪郭を隠し、またその神秘性が一目ですべてを見通せないようにすることが必要である。—中略—巧みに計画された公園というのは、こぢんまりした空間と、目を見張るような展望とがつぎつぎに形を変えて展開されるような公園である」
 富山の歴史の中で、常に中心的な役割を果たしてきた富山城址公園。その中でも日本を代表する音楽家・滝廉太郎との関わりは、非常に象徴的な出来事だと言える。さらに富山城の栄枯盛衰の歴史は、滝廉太郎が代表作『荒城の月』を作曲する際にも影響を与えたのではないかと、ロマンも広がる。四季折々に小川が流れ、滝が落ち、池がさざ波を立て、街の中心部にいることを忘れさせる豊かな自然が、訪れる人を温かく迎えてくれる——富山に根ざした、テーマ性のあるそんな日本庭園を造ることはできないだろうか。


▲花吹雪の中、神通川の面影を残す松川を下る松川遊覧船。富山城址公園と松川を、趣のある親水空間でつないだ「親水のにわ」が彩りを添え、遊覧船の船内では『荒城の月』など、滝廉太郎の名曲が流れる。

 

「チボリ公園」に学ぶ

 世界中に多くのユニークな公園があるが、富山城址公園とほぼ同程度の大きさで、市民や観光客に親しまれている有名な公園と言えば、デンマークの首都・コペンハーゲンの「チボリ公園」である。
 レトロなアトラクションゾーンと、美しい絵画のような庭園ゾーンとで成るこの「チボリ公園」は、今から約180年前の1843年に開園。地元民の憩いの場でもありながら、海外からの観光客にも根強い人気があるという。有名な童話作家・アンデルセンも足繁く通っていたというこの公園の魅力の秘密は、地元コペンハーゲンの歴史や風土に乗っ取った心憎い演出にあり、その素晴らしさは次のような文章にも表れている。
 「街の中心地にこのような素晴らしい公園を持っているコペンハーゲンは、大変恵まれた環境の都市と言えるでしょう。世間のいやな出来事を忘れ、夢の世界で心を発散させる、そんな憩いの場がチボリ公園なのです」
 このチボリ公園は倉敷市が誘致し、1997年に「倉敷チボリ公園」が開園したが、わずか11年半で閉園に追い込まれた。バブル崩壊後の時期の開園だったことや、テーマパークとしての要素が強かったため、東京ディズニーランドやUSJなどとの競合に負けたということもあるが、全く異なる歴史・文化背景の公園を、いくら人気があるからと誘致しても、根付くのは難しいことが浮き彫りになった例だと言えるだろう。
 つまり、チボリ公園はデンマークの風土と密着した土着の公園であり、それ以外の場所では存在できないほど、唯一無二の公園と言えるかもしれない。


▲コペンハーゲン市庁舎横のアンデルセン像は、大好きだったチボリ公園を見つめている。

 

富山城址公園を唯一無二の公園に

 令和2(2020)年3月、路面電車の南北接続という富山市にとって大きな節目の事業が完成した。また、令和4(2022)年には、富山駅前周辺で複数の大型ホテルの開業が予定されている。これらの動きの中で、富山市中心部の核として、富山城址公園の役割は非常に重要であり、さらなる魅力づくりが求められていると言えるだろう。
 平成の時代、弊誌の問題提起に端を発して、当初は「既に完成している」との見解だった市も富山城址公園の再整備に着手した。結果、千歳御門の移築、日本庭園や石垣の整備などが行われ、広場的な要素が強い公園から、少しずつ富山ならではの魅力を持つ公園へと変化してきている。
 昨今、全国的に公園施設の維持管理問題がクローズアップされる中、平成29(2017)年、民間事業者と連携して公園の維持管理、運営等を行う制度(パーク―PFI)が都市公園法に創設された。管理する自治体の支出を削減でき、民間の投資によって新たな整備が可能になるといったメリットもあるが、どのような事業者が関わるかによって、これまで大切に守られてきた富山城址公園の特性が損なわれる可能性もあり、慎重に検討するべき課題であろう。
 先ほどの「倉敷チボリ公園」の例のように、いくら素晴らしい公園を誘致しても、よそからの借り物では根付くことは難しい。やはり、自らの街に誇りを持つ地元民が、真剣に考えて提案し、一つひとつ実行に移して行く姿勢から、どこにもない唯一無二の公園が生まれるのではないだろうか。その具体案の一つが、先ほど述べた滝廉太郎の名曲『荒城の月』をテーマとした公園である。
 今後、富山城址公園北側の「松川周辺エリア」の再整備が予定されているが、富山城址公園の持つ特性と良さを十分にふまえた上で、大きく育った木々と自然を生かし、さらなる魅力的な空間となることを期待したい。


▼富山の歴史とともに歩んできた中心部のオアシス・富山城址公園。少年時代の滝廉太郎が見た光景そのままに、今もなお城の石垣の上に輝く月を見ることができる貴重な空間だ。



富山城址公園をめぐる動き(1988〜)

1988年(昭和63年)
・松川で、遊覧船が運航開始

1989年(平成元年)
・グッドラックとやま2月号にて、「荒城の月」のモデルは富山城説を発表
・松川沿いに「親水のにわ」完成

1990年(平成2年)
・市議会で、初めて城址公園問題が議題に上がる

1991年(平成3年)
・グッドラックの呼びかけにより、「平成の日本庭園・荒城の月園」造成を目指し、「富山城址公園整備懇話会」発足

1992年(平成4年)
・松川遊覧船駅舎(松川茶屋)完成

1994年(平成6年)
・市議会にて、城址公園整備構想策定に向けた懇話会設置が決定

1998年(平成10年)
・富山市が南側のお堀周辺と、中央部西側の芝生広場の再整備に着手

2005年(平成17年)
・富山市郷土博物館をリニューアル

2007年(平成19年)
・千歳御殿の門(千歳御門/埋門)を、園内へ移築

2008年(平成20年)
・千歳御門脇(南側)に石垣が完成

2015年(平成27年)
・日本庭園が完成
・富山市立図書館が移転のため、閉館

2016年(平成28年)
・茶室「本丸亭」が園内にオープン

2017年(平成29年)
・城址公園北側の松川周辺エリアの再整備に向け、富山市の基本計画検討委員会が初会合

2018年(平成30年)
・「富山市まちなか観光案内所」オープン

2019年(令和元年)
・公園を使用し、試験的に事業を行う機会を民間事業者に提供するトライアル・サウンディングを、富山市が実施

※千歳御門
 富山藩10代藩主・前田利保が隠居所として造営した千歳御殿(現在の桜木町の場所にあった)の正門で、嘉永2年(1849年)に建築された。当時は、今の桜木町内にあったが、明治期に赤祖父家に移されたため、昭和20年8月2日の富山大空襲を免れた。富山城で唯一現存する、千歳御殿創建当初の建造物。

 


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