富山城の西側の堀を復元し、歴史を甦らせよう

2021グッドラック街づくりキャンペーン

今井 清隆 氏
元・富山県河川課長、
元・富山県立山カルデラ砂防博物館長
●聞き手/中村 孝一(月刊グッドラックとやま発行人)

 

 富山城址公園の北側を松川が流れ、緑のオアシスとなっている富山市中心部。昭和初期までこの場所を神通川が流れていたことは、市民でも知らない人が多い。
 戦国時代、神通川は富山城の外堀として利用され、城が水に浮かんで見えたことから「浮き城」とも呼ばれていたという。戦後、埋め立てられてしまった堀を復元し、富山城の歴史を甦らせることはできないのか―。長年にわたり、河川行政に携わってきた今井清隆氏に話を伺った。

 

時代の流れが治水から親水へ

中村 1988(昭和63)年に松川遊覧船の運航をスタートさせたんですが、河川に環境という考え方が入ってきたのはちょうどその頃なんですよね。

今井 富山は歴史的にも洪水が多かったので、河川行政も特に治水に力を入れてきましたからね。それまでは河川に人が近づくのは危ないという考え方が主流でしたが、1980年代からは住民が親しめる川へと国の政策が変わったんです。

中村 国の方針は変わったけれど、県はなかなか変わらなかったですね。

今井 それまでずっと治水でやってきていますし、そのように教育されてきていますから、なかなか変えるのは難しいです。しかし、全体を見て判断するということも必要ですからね。

 

先進都市・サンアントニオへの視察を活かす

中村 2003(平成15)年、私が県議・市議とサンアントニオへ視察に行った際、今井さんも同行されましたが、翌年に開いた視察参加者の座談会では3つの提案をされていますね。
 1つ目は「いたち川との合流点に閘門や堰を設け、松川の水位を安定させる」。2つ目は、「サンアントニオの観光名所・アラモの砦のように歴史的なものを整備する」。3つ目は「西側のお堀の復元」ということでした。

今井 やはり、川の水位は歩道より10センチほど下がっている状態が、いちばんいいんですよ。

中村 サンアントニオは上流と下流に水位を調節するダムがあるので、ちょうどいい水位に保たれていました。

今井 あまり下がりすぎるのは良くないですし、上がりすぎると船が通る時にしぶきが上がりますからね。

中村 サンアントニオの「アラモの砦」の意義について指摘されたのは、この座談会では今井さんお一人でしたが、とても重要なことだと思います。

今井 「アラモの砦」は、テキサスがメキシコからの独立戦争の際に激戦地となった歴史的遺産ですから、それを目的に大勢の観光客が来るわけですね。

中村 アメリカでは「アラモの砦」は独立の象徴になっていて、7月4日の独立記念日は特に観光客が多いようです。ですから、リバーウォークだけを目的に来ているわけではないと思います。

 

▼街の中心にありながら、非日常の別世界が広がるアメリカ・サンアントニオのリバーウォーク。

 

富山の歴史を大切にする

今井 歴史的なものが大切なんですよ。例えば、戦国時代に富山城へ入った佐々成政は、城下に洪水が起きないよう、常願寺川沿いに堤防を築いています。有名な武田信玄の「信玄堤」と一緒ですね。

中村 佐々成政が堤防を本格的に築いたことで、富山の城下町が発展していった歴史をもっと大事にしたいですね。神通川の湾曲部を固定し、富山城の外堀として利用したのも成政ですし。

今井 後から治めた前田家が治めやすいように、成政の評判が落とされていたということはあるでしょうからね。

中村 富山市役所を設計された日本設計の池田武邦さんは、今の松川一帯を神通川が流れていたという歴史を大事にしようと、建物のデザインに取り入れられたんです。展望塔は帆船のマストをイメージしたもので、桜橋側から見ると確かに船になって見えます。神通川だった頃は、富山港からの帆船がたくさん行き交っていましたからね。

 

神通川から誕生した富山市街地

今井 木町(現在は今木町)も元々は神通川の木場(材木置き場)ですし、現在は忘れられている歴史を、もっと言っていかなければならないですね。鱒寿司もその流れで続いていますから。

中村 富山平野を大きく蛇行して流れ、何度も洪水を引き起こしていた神通川。その流れをまっすぐにしたことから富山の街づくりが始まったという歴史を、県民市民にもっと知っていただけたらと思います。松川のリバー劇場と松川茶屋のカフェテラスは、今井さんが担当されていた時にお願いして作っていただきましたが、旧「塩倉橋」の橋台を利用して作られているんですよね。

今井 ここに昔、橋があって、道路が通っていたということを表に出したかったんです。戦災復興で城址大通りが作られたことで、今の塩倉橋に架け替えられたという歴史を、目で見て学ぶことができますからね。

中村 富山の歴史を様々な面から掘り起こしていくことは、本当に大切ですね。

 

▼旧塩倉橋の橋台を利用して作られた、松川遊覧船乗り場前の「リバー劇場」と「カフェテラス」。

 

富山で少年時代を過ごした滝廉太郎

今井 滝廉太郎についてもそうですね。滝廉太郎がいた頃は、明治の廃城令で富山城がどんどん取り壊されている時期。富山城はまさに荒城なんです。その光景を見ながら育った滝廉太郎が、後に『荒城の月』を作曲したとなると、やはり大いに関係あるでしょうね。

中村 一般の方はそういうことを知られないですから、私が平成元(1989)年に「『荒城の月』のモデルは富山城!」との新説を発表した時は、びっくりされた方もたくさんおられたようです。

今井 そうでしょうね。しかし、滝廉太郎が富山城の石垣を見ながら小学校に通い、廃れていくお城の姿を見ていたのは事実ですからね。富山県民は、もっと自己主張してもいいと思いますよ。加賀藩の圧政を受けていたことから、控えめな県民性が生まれたのでしょうがね。
 真実は曲げてはいけないけど、もっと夢のあるようにふくらませていけばいいと思います。

※江戸時代から明治時代にかけて、神通川(現在の松川)といたち川との合流点付近は「木町の浜」と呼ばれ、白帆を張った四十石積みの舟が絶えず航行していた。
 (神通川帰帆之景 木町の浜「越中名勝案内」 富山県立図書館所蔵)

 

歴史が甦る西のお堀の復元

中村 以前、郷土史家の先生も同じようなことを言っておられましたね。
 3つ目にあげておられた「西側のお堀の復元」を実現できると、歴史とロマンあふれる富山城、という点でも素晴らしいですよね。

今井 ただ復活させると言っても、何のためにというのが必ず出ますからね。何かしっかりとした動機付けが必要ですね。

中村 南側のお堀はよく残してくれましたよね。あの水面は本当に貴重だと思います。

今井 貴重ですね。西側を復元するということは元の姿に戻すということですから、富山城の歴史が甦るのは素晴らしいと思います。

中村 2003年9月に「川と街づくり国際フォーラム」を国・県・市の後援で開催したのですが、ちょうど神通川の直線化100年の記念の年ということで、歴史的にも非常にタイミングが良かったんです。やはり、説得力のある歴史的背景が必要ですね。

 

※西側のお堀が見える明治時代の地図
 市街地見取全図 明治18年(富山市郷土博物館所蔵)

▼戦後すぐの航空写真。米軍空中写真 昭和21年(国土地理院所蔵)

 

市民の意識を高め、時間をかけて検討を

今井 復元する意義を、市民にも共感してもらわなければなりませんし、時間をかけて検討していく必要があると思いますね。神通川に関する歴史や文化というものを、さらに研究していって、松川の整備や西のお堀の復元につなげていく、という努力が必要かなと思います。

中村 たしかにその通りですね。長年にわたる行政での経験をふまえた貴重なアドバイスをいただき、誠にありがとうございます。今後も富山城の西側のお堀の復元の実現に向け、啓蒙活動を続けていきたいと思います。

 

▼西側のお堀を復元し、松川とつないだ新しい水路に、明治・大正期の富山市役所、富山市立図書館、富山県庁などの歴史的建造物が復元された富山城址公園のイメージパース。


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