滝廉太郎が育った富山の歴史を市民がもっと誇れるように!

滝廉太郎 没後120年記念

 1903(明治36)年6月29日、滝廉太郎が23歳10カ月という若さでこの世を去ってから今年で120年目となる。父親の転勤で富山に約2年間暮らした滝廉太郎は、富山城内にあった小学校に通いながら、多感な少年時代を送っていた。富山の豊かな四季は、後の彼の創作活動に多大な影響を与えていたにちがいない。
節目の年を機に、数々の名曲を残した滝廉太郎の顕彰活動を、ゆかりの地・富山でさらに進めるべく、関係者の皆さんと話し合った。

◇座談会出席者

浅岡節夫 さん
滝廉太郎研究会会長
富山県オペラ協会名誉会長

川田文人 さん
滝廉太郎研究会副会長
富山国際大学客員教授

木村正人 さん
富山市丸の内2丁目
町内会長

黒田素子 さん
ピアニスト
富山県立呉羽高校非常勤講師

小池正俊 さん
読者代表

花柳松香 さん
花柳流専門部教授
富山女性連合会会長

・司会/中村孝一
(月刊グッドラックとやま 発行人)

 

節目の年を盛り上げるきっかけに

中村 2022年4月に、富山市内の小学生に配布される社会科副読本に、「滝廉太郎記念館」が掲載され、子どもたちの歴史教育の面で一歩を踏み出せました。
また6月には浅岡節夫先生、黒田素子先生にご出演いただき、「滝廉太郎研究会記念コンサート」を開催。11月にも富山女性連合会のイベントの中で、花柳松香先生の演出により「滝廉太郎と富山」の関わりを紹介していただきました。2023年は、滝廉太郎の没後120年という記念すべき年ですので、また皆様と盛り上げていきたいと思っています。

川田 社会科副読本に掲載いただいたのは嬉しいのですが、施設の紹介だけではなく、富山に約2年間住んでおられたことなど、コラムでぜひ概要を取り上げてほしいですね。
また、竹田市など、滝廉太郎を顕彰している街でサミットみたいなものを開くのも面白いですね。ライプツィヒが参加してくれたりすると、国際的になりますしね。本当は市同士でやるのが一番いいのですが、まずは民間ベースでスタートして、最終的に行政を巻き込んでいく形がいいでしょうね。

 

ゆかりの街でそれぞれ顕彰活動を

浅岡 滝廉太郎は23歳の生涯でしょ。ですから、大分県もつながりが強そうなこと言ってますけど、それぞれ弱いところも抱えてるんですよ。みんなちょっとしか関係ないんですから、観光に強く結びつけるという意味合いにおいても、富山がこんなにグズグズしていてはいけないですね。

川田 滝廉太郎と関係のある街がみんなで共有して、盛り上げていくことが大事でしょうね。

 

地元民を啓蒙し、富山の文化の掘り下げを

木村 私は中村さんからお聞きするまで、滝廉太郎が※総曲輪(現在の丸の内2丁目)にあった官舎に住んでおられたことはまったく知りませんでした。前回の座談会の後、町内会の総会で役員の皆さんにお知らせしましたが、地元の皆さんを啓蒙するためには、民間だけではなく行政にも協力いただけたらいいですね。

※『総曲輪懐古館』(巧玄選書)参照

黒田 先日、ある地域の活性化の取り組みについて紹介している番組を見ましたが、行政からの支援で大きく進んだと話されていたことがとても印象に残っています。やはり、行政の力もお借りできたらいいですね。

木村 富山は中心部が空襲に遭い、どうしても復興に力を入れなければならなかったという経緯があります。それもあって、高岡などに比べて歴史・文化面が遅れているように思いますが、これからは富山も歴史・文化を掘り下げていくことが必要ですね。

中村 高岡には由緒あるお寺が残っており、行政がかなり力を入れておられるようですね。
富山は空襲で焼けたとはいえ、今の富山城の石垣やお堀は間違いなく戦国時代から始まっています。江戸時代は総曲輪通りまでがお城の敷地でしたし、明治時代になって、滝廉太郎が通っていた小学校も城内(西の出丸)にありました。この富山の歴史の核となる場所と、日本を代表する作曲家がつながっているということは、とても大切な富山の歴史です。地元の歴史を市民に知らせることはシビックプライドにつながりますし、非常に重要です。

 

日本の音楽界に偉大な功績を残した滝廉太郎

浅岡 滝廉太郎は、日本の音楽の創始者ですからね。

中村 それまで日本には西洋音楽はなかったですし、滝廉太郎の功績は非常に大きいですよね。

浅岡 そうなんです。「春のうららの」で有名な『花』も、日本人による最初の合唱曲ですからね。

中村 その滝廉太郎の作曲の背景に、富山での体験があるわけですからね。

浅岡 私が中学2年の時に東京から疎開してきて、夜に富山城址を通って親戚の家へと行った時、古い石垣の上に月が出ていた光景はとても印象的で、今も鮮明に覚えています。

中村 まさに『荒城の月』の世界ですね。城内にあった小学校に通っていた滝廉太郎も、同じような光景を見ていたと思います。
花柳先生はお父さんの仕事の関係で大分に住んでおられたこともあり、滝廉太郎との縁を感じて、当初から顕彰活動に加わっていただいていますが、イベントでの発表も素晴らしかったですね。

 

自らがチャレンジ精神を持って伝える

花柳 今回は「富山と滝廉太郎」の朗読と、舞台での『荒城の月』の踊りを連続でつなげるという新しい演出で紹介しました。短時間でしたが、皆さん大変感動されて大好評でした。やはり伝承・伝達には、チャレンジ精神が必要だと改めて感じています。
また、自分自身が発信力、パワーになって周りの人に伝えていくという意識が非常に重要だと思います。舞台発表に限らず普通に市民生活をしていても、滝廉太郎はこうなんだよとか、自分自身が何か伝達する精神を持ち続けなくてはいけませんね。

浅岡 その通りです。それぞれが自信を持って伝達することが、大事だと思います。


▲「滝廉太郎記念館」が掲載された小学校の社会科副読本「わたしたちの富山市」。

 

知ってもらうきっかけづくりを

花柳 私は富山に住んでいても、中村さんからお聞きするまでは、滝廉太郎について聞く機会がなかったですから。知ったことで、舞台発表に取り入れると、「そうだったんですね」、と皆さん非常に感心される。ですから、常に発信しないといけませんね。芸能人でも3カ月名前を出さないと、もう忘れ去られるということですが、やはりそうだと思います。
滝廉太郎を誇りに思ってもらえるようにと思ったら、必ず口にして、会った人たちみんなに伝達して知らせようという情熱がすごく大事ではないでしょうか。

浅岡 現在、県庁や市役所のある場所は昔の神通川の跡地ですよ、と言っても、若い人はほとんど知りません。郷土の歴史を学ぶ大切さを、もっと感じていかねばなりませんね。

花柳 例えば、滝廉太郎の『荒城の月』をストリートダンスで表現してみてくださいとか、ラップで表現してみてくださいとか言うと、皆さん掘り下げようと思って本物を勉強するようになる。そういったきっかけづくりがとても大事だと思うんです。

中村 没後120年の節目の年は、多くの県民市民に知っていただく大きなチャンスですからね。

 

まず地元意識を高める

小池 この座談会に丸の内2丁目の町内会長さんも参加しておられますが、まず地元意識をしっかり高めていくことが大事だと思いますね。
そのためにも、地元の方が誇りを持って語ることができるような、わかりやすい資料を1枚作って皆さんにお渡しする、というのもいいのではないでしょうか。滝廉太郎と関わりのある場所を示した、昔の地図などもあるといいですね。

木村 そうですね。実際、町内のどのあたりに滝廉太郎が住んでいたのか、といったひと目で分かるような資料があると、皆さんにご理解いただきやすいと思います。

黒田 私は職業柄、高校の生徒さん達に接する機会が多いですので、日頃から滝廉太郎と富山の関わりについて伝えていきたいですね。また、没後120年の大切な節目の年ということで、メディアにも取り上げていただくと、多くの県民市民の方に知っていただけるのかなと思います。

 

滝廉太郎研究会からも情報発信

川田 最近知ったんですが、ベルギーの教会で『荒城の月』が賛美歌になっているそうですね。世界的にも有名になっている滝廉太郎が、富山とどのように関係していたかということを、「滝廉太郎研究会」としても情報発信を強めていけたらと思います。没後120年を記念し、会としても一生懸命やらなければならないな、と改めて思います。

中村 滝廉太郎の命日6月29日に近い6月18日(日)に、富山市民プラザのアトリウムで記念コンサートを開催したいと思っています。今後とも皆様方のお力添えを、どうぞよろしくお願いいたします。本日は、誠にありがとうございました。

 

▼富山城の石垣を月が照らす光景は、まさに『荒城の月』の世界だ。(画:畑中勇清氏)

― 滝廉太郎 年表 ―
1879(明治12)年 8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。
1882(同15)年 11月 父が神奈川県書記官となり、横浜に転居。
1886(同19)年 8月 父が富山県小書記官となり、富山市に転居。総曲輪(現在の丸の内)の官舎に居住。 9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。(7歳)
1887(同20)年 2月 父が富山県知事代理となる。
1888(同21)年 4月 父が非職を命じられる。
5月 傷心のうちに富山を離れ、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
1889(同22)年 3月 父が大分県大分郡長に任じられる。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
1890(同23)年 5月 廉太郎も、大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
1891(同24)年 11月 父が大分県直入郡長に転じる。 12月 一家、豊後竹田へ転居。
1894(同27)年 5月 上京し、音楽学校受験準備のため芝区愛宕町の「芝唱歌会」に入会。
9月 東京音楽学校(予科)へ入学。
1895(同28)年 9月 同校本科へ進学。
1898(同31)年 7月 本科を首席で卒業。9月に研究科入学。
1899(同32)年 9月 音楽学校嘱託となる。(20歳)
1900(同33)年 6月 ピアノ・作曲研究を目的とし、満3カ年のドイツ留学を命じられる。この年、「荒城の月」、「花」を含む組曲 「四 季」 、「箱根八里」 、「お正月」など、多数作曲。
1901(同34)年 4月 ドイツ留学へ出発。 10月、ライプチヒ王立音学院入学。
1902(同35)年 10月 病気のため、ドイツより横浜港に帰省。大分市の父母のもとで療養。
1903(同36)年 6月29日 病死。 (23歳10カ月)

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