歴史教育の充実で富山の誇りを高めよう

・富山市長・藤井裕久氏 就任記念インタビュー ・
聞き手/中村 孝一 (月刊グッドラックとやま発行人)

 さる4月18日の選挙で、富山市長に初当選を果たした藤井裕久氏。森雅志前市長からのバトンを引き継ぎ、「さあ、始めよう!幸せ、日本一、とやま!!」をスローガンに掲げて船出した藤井氏に、これからの富山市の街づくりにかける思いを伺った。

 

中村 この度は、富山市長にご就任、誠におめでとうございます。弊誌の呼びかけで2003年9月に開催した「川と街づくり国際フォーラム」の折には、日本青年会議所富山ブロック協議会会長として、その実行委員会の委員にも参加いただいていましたね。

藤井 「神通川馳越線工事100年記念」として行われたイベントでしたよね。あの時のことは忘れませんよ。皆さん、燃えておられましたからね。月日が経つのは本当に早いですね。
 この馳越線工事については、森前市長も去年あたり、よく話しておられました。この工事によって、神通川の流れが変わり、富山市の中心市街地が誕生したという、非常に重要な出来事ですよね。

中村 そうなんです。グッドラックでは創刊以来、座談会などを通して市民の要望をお聞きしてきたのですが、自分たちの住んでいる街に誇りを持てない、という意見が多かったんですね。
 そこで、富山市の歴史を調べてみると、現在の松川の所を神通川が流れていた、ということがわかり、この母なる神通川から生まれた松川、城址公園を活かした街づくりが重要なのでは、と考えるようになったんです。

 

旧神通川の川筋跡に
誕生した富山市中心部

藤井 蛇行していた神通川を真っすぐにする馳越線工事という大工事を、120年前にやってのけたパイオニア魂は、県民市民の誇りですし、私たちが絶対に忘れてはならない出来事ですね。
 そして、旧神通川の蛇行の跡地が、県庁や市役所、商業ビル、富山駅といった、まさに文化と経済、交通の結節点になっているというのが、この120年の発展の歴史だと思います。
 また、戦争で中心部が焼け野原になりながらも、富山は見事に復興しています。こういった歴史を振り返って、我々の先祖はすごいことをやっているじゃないかと、この先祖に対する感謝や誇りを、未来を担う子ども達にしっかり伝えていくべきですね。

中村 その通りですね。


▲富山市中心部を大きく蛇行して流れ、洪水を繰り返していた神通川を、明治後期から昭和初期にかけての改修工事(馳越線工事)によって直線化した。写真右側の白い部分が、埋め立てられた旧神通川。

 

教育の場で培われる
郷土・富山の誇り

藤井 教育の場で、すべての富山市のお子さんに富山の近世の歴史を知ってもらえば、ここに生まれ育って良かったな、と思ってもらえると思うんです。
 そうすれば、将来一回学び舎を求めて県外へ出ても、富山に戻って生活しようという人がどんどん増えてくると思うんですよ。それはすべて教育なんですよ。街の誇りを育むのは教育の賜物だと思います。

中村 教育は本当に大切ですね。

 

松川と似た
クライストチャーチの水辺

藤井 実際のところ、「川と街づくり国際フォーラム」は、私にとってはとても影響がありましたね。その後、ニュージーランドのクライストチャーチへ視察に行く機会があったんですが、非常にきれいな街で、そこにも松川のような自然あふれる美しい川があって、とても親しみを感じましたよ。


▲美しい景色の中を遊覧船が行く、ニュージーランド・クライストチャーチのエイボン川。

中村 そうですね。非常に松川と似ていますね。

藤井 似ていますよね。遊覧船にも乗りましたが、船で川を下ったり登ったりしながら、水面から街を眺める感じですね。古い建物がけっこうありますので、木々の緑と青い空の中間にちょうど屋根のラインが見えたりして、すごく絵になるんですよ。

中村 水辺の魅力を感じておられるということは素晴らしいことですね。元知事の中沖さんも水辺が大好きな方で、富岩運河が残ったのも中沖さんのおかげですし。あの運河は都市計画で埋め立て、道路になる所を中沖さんの強い意志で撤回させたんですね。

藤井 おかげで運河も非常に良く整備され、中島閘門や牛島閘門のような産業遺産も残り、これもシビックプライド=富山の誇りになりますよね。あれを残されたというのは、本当に先見の明があったと思います。

中村 中沖さんのおかげで、水辺を活かした潤いのある空間が生まれましたね。

 

市電の南北接続は
新しいシビックプライド

藤井 一緒のことが鉄軌道にも言えるんです。去年の3月にライトレールが南北接続し、線路で100年以上分断されていた富山市の南北がLRTでつながりました。自動車通路と歩行者通路も南北ででき、森前市長の描いた未来予想図通りになるわけですが、これも富山市としては新しい財産であり、シビックプライドですね。

中村 そうですね、森前市長はシビックプライドということをとても意識しておられましたね。そして2007年に、当時の部長クラスとアメリカ・サンアントニオを視察され、松川一帯をサンアントニオのようにしたい、と熱心に各地で講演されていました。
 私も2003年に県議・市議・元行政マンと総勢19名で行き、また富山商工会議所の方々が別日にサンアントニオへ視察に行かれましたが、その流れの中で、当時の商工会議所の八嶋会頭や専務の濱谷さんが、西側のお堀を復元し、南側のお堀と繋いだらどうか、と提案されたのが印象的でしたね。

 

西側のお堀の復元で
ユニークな水辺空間を

藤井 西側のお堀は、いつまであったんですか?

中村 戦中まではありましたね。戦後、南側のお堀を残して埋め立てたと伺っています。

藤井 南側は歩道が広くなって、とてもきれいになりましたよね。

中村 ええ、当時の正橋市長が皇居のお堀端のようにどこからでもお堀が見えるようにしたいと、南と西にあった建物の移設を指示され、その後、森市長が西側の堀を復元したイメージパースを発表されたんですね。これを機にお堀を復元できたら素晴らしいですね。
 国際会議場と水路で繋がると、船でも行けるようになり、とてもユニークな空間になると思います。シビックプライドを高める要素にもなりますし。

藤井 お城は、堀に囲まれているというのが本来の形ですからね。総曲輪小学校跡地の工事の時にも、お堀の後が見つかりましたし、歴史はその名前が刻んでいる通りなんですよね。

中村 本当にそうですよね。

 

先祖の足跡をたどり
街の誇りにつなげる

藤井 富山は空襲に遭い、県庁と電気ビルぐらいしか古い建物は残っていませんが、戦後みごとに復興を果たしたという、先祖の生き様にも誇りを持つべきですね。

中村 例えば、戦前にあった主な歴史的建造物を、お堀を復元してつくることができたら、非常に素晴らしいと思いますが…。

藤井 明治から大正にかけた建物ですね。やはりこの頃のいわゆる近代建築、日本人が建てた西洋建築ですが、とても味がありますからね。富山県庁や電気ビルも、いまだに味がありますし。

中村 まさに芸術作品ですよね。富山の歴史が目に見える形で存在していると、市民の誇りに繋がりますよね。滝廉太郎さんも、7歳から9歳にかけての2年間を富山市で過ごされ、通っていた小学校跡地に少年像が建っています。この像を寄贈されたのは、滝廉太郎のお父さんの生まれ故郷の九州人会の方々で、自分たちの誇りにと、その像を建立されたんですね。

 

富山ゆかりの人物を
教育に活かす

藤井 滝廉太郎は懐かしいですね。小学生の音楽の時間に『荒城の月』を必ず習いますから、知らない人はいないでしょう。

中村 滝廉太郎はわずか23歳10カ月で亡くなっていますので、富山で過ごした2年間はとても貴重な時間ですし、富山市教育委員会がもっと富山時代を教材に取り上げるべきですね。私たち市民による滝廉太郎研究会では、毎年「滝廉太郎記念コンサート」を開催し、富山の歴史・文化を掘り起こしているんですよ。

藤井 そうですね。滝廉太郎はもちろん、富山県にゆかりのある偉人の方を、しっかり教育委員会で取り上げていけば、もっと郷土に誇りを持てる子ども達が育っていくでしょうね。

中村 その通りですね。上野にある旧東京音楽学校奏楽堂には、入り口に滝廉太郎のブロンズ像があり、入って最初の額に入った顔写真も滝廉太郎で、その隣が山田耕筰と続きます。少年時代を富山で過ごした滝廉太郎が、日本の近代音楽の扉を開いたパイオニアとして紹介されているんです。

藤井 そういった富山ゆかりの偉人の歴史も含めて、富山の街づくりの題材にしていけば、もっとお洒落で誇りの持てる街、歴史や文化を大事にする街になっていくのではと思います。

中村 藤井市長は「市民が幸せを感じながら、生き生きと生活できる富山」を目標に掲げておられますが、その実現のためにも、富山の歴史と文化に根ざした街づくりを進めていただけたらと思います。本日は誠にありがとうございました。


▲「シビックプライドを高めるには教育が重要ですね」と語る、藤井市長。

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