1974年世界J・ライト級チャンピオン ベン・ビラフロアとの出会いが『月刊グッドラック』と『松川遊覧船』の誕生に!

特別企画○創刊秘話

 

中村 孝一 (月刊グッドラックとやま発行人)
×
水上啓子(富山シティエフエムパーソナリティ)

 

(2022年11月21日放送 富山シティエフエム「スマイル+」より要約)

 

水上 『月刊グッドラックとやま』創刊45周年、誠におめでとうございます。

中村 皆様のおかげです。本当にありがとうございます。

水上 このグッドラック、皆様、目にされたことは必ずあると思いますが、どんなコンセプトで始められたんでしょうか?

 

空襲から命を救われた松川

中村 私は松川のすぐ近くの丸の内で生まれ、翌年、空襲に遭って、美しい立山連峰の見えるお隣の立山町で育ったんですね。
 B29が焼夷弾を落とす中、松川の笹舟に母親に背負われて助かったんです。生まれて11カ月だったんですけどね、兄弟も何人もその笹舟に乗っていて、私達家族は奇跡的に無事だったんです。当時の船頭さんに聞いたら、その当時の松川の水はきれいで、手ですくって飲んでいたそうです。
 ところが大人になって松川を見たら、自分がそこで助けられた川なのに、近づけないくらいヘドロで臭い川になっていたんです。昭和30年代に入って、高度経済成長に向かって産業優先社会になり、風情とか情緒とかの価値がわからなくなって、川がゴミ捨て場になっていったんですね。

水上 そんなにひどい状況でしたか。

中村 当時は下水が入っていたので、夏になるとヘドロが腐敗し、ガスがブクブクブクと出て、相当遠くからでも臭いがしました。

水上 そうするともう近寄ろうとも思わないし、なんか触れられない感じがあったんでしょうね。

中村 見捨てられた川だったんです。経済界からは、こんな汚い川はコンクリートで蓋をして駐車場にしたら、と。当時の改井市長と佐藤工業の佐藤助九郎社長が猛反対されて、松川はコンクリートで蓋をされずに済んだわけです。

水上 そうなんですか。そうなると、この川をどうにかしないと、ということになりますよね。

中村 「川はそこに住む人の心を映し出す」——。ということは、私達の心がきれいになれば、川も美しくなるはずです。ではそのために何をすればいいのか。当時、アメリカの雑誌を翻訳した『リーダーズ・ダイジェスト』を兄の義一が読んだ後、いいことが書いてあると。これを読んでいれば世界中のことも知れるし、人間が本来どういう心を持ったらいいのかにまで触れてあると……。

水上 お兄さんはその時おいくつですか?

中村 私が小学5年生ですから、中学3年生ですね。自分が感動して、弟に進めたんです。当時いろんな本や雜誌を読んだけど、これはすごいと思いました。

水上 特にどういうところが?

 

川が映し出す心の豊かさ

中村 〝心の糧〟になる内容が多かったですね。人間が幸福になるには物質的な面と精神的な面があるけど、物質的な豊かさだけでは幸福になれないと。精神的な面、心が豊かにならないと幸福になれない、と書かれていたんです。

水上 当時は物質的な面で豊かになっていこうとやっていた時期ですもんね。

中村 まさにその時代は、経済優先の社会になっていましたね。

水上 そうですか。

中村 川が汚れていても、とにかく儲かればいいという風潮は間違っていると。人間は物質的にいくら豊かになっても、心が豊かにならないと幸福にはなれない。幸福になるためには、心が豊かにならなければならないという気持ちになり、中学の時にはそういう雑誌を大人になったら出したい、という夢を持ったんです。

水上 そこでですか。

中村 中学3年の時に担任の先生との進学の相談の場で、「僕は早く社会に出て事業をやりたいから進学はしない」と。

水上 そんなことまで言ったんですね。

中村 先生がびっくりして、親は知っているのかと。

水上 それでどうされたんですか?

中村 最初から雑誌を出すと言っても途方もないことでしょ。東京でやってさえ成功するかわからない。こういう片田舎で雑誌を出す出版社をつくるのは、子どもながら難しいと思っていました。まずワンステップは世の中に必要とされる事業はなんだろうと。そこで建築だと気づくんですね。さらに、工業高校は3年制の建築科がありますが、高等技能学校は1年で学べるという情報を得たんです。これはすごい、ここだと。

水上 ここだと思われたんですね、中村少年(笑)。

中村 それで建築関係に行くんですが、中学時代に抱いた雑誌を出したいという気持ちが忘れられず、そこでひとつエピソードがあるんです。当時、日本海側で初めてというボクシングの世界タイトルマッチがありまして……。

水上 富山で?

中村 ええ。その時のチャンピオンがフィリピンのベン・ビラフロアという方で、日本人の選手が挑戦するということで、富山市体育館で試合が行われました。全くの偶然で、こちらが望んだわけでもないけれど、知り合いの方の紹介で彼と知り合うことになって、これはこれでまたエピソードがあるんですが、その出来事を1年後に文才もないのに小説にしまして、それを東京の出版社が買ってくれ、出版したんです。

水上 それが出版できた第一号ということですか?

中村 そうです。それが一つの自信になったと言うかね。

水上 そうでしょうね。

 

単行本の出版が雑誌創刊のきっかけに

中村 『はばたけ友情の翼』というタイトルで、これは家内がね、いろいろ候補があった中で選んでくれて、私もいいタイトルだなと、それに決定したんです。

水上 自分の作品が世に出るというのは喜びが大きいですよね。

中村 そうです。もしそれがなかったら、雑誌を出そうというところまでつながったかどうか、そのぐらい大きな出来事でしたね。
 創刊日を自分にとって影響を与えた日を選びたいと思っていたんですが、実は私、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディをものすごく尊敬していましてね。私が19歳の時に暗殺されたので、創刊日をあえて、その日の日本時間である11月23日に決定したんです。暗殺されてから14年後でした。

水上 本を出版されてから、雑誌の創刊まではどのぐらい?

中村 1977(昭和52年)に創刊しましたから、2年後ですね。

水上 2年ということは、そこからかなり雑誌の出版に勢いがついたという感じなんですね。

中村 間違いなくつきましたね。

水上 そこでしばらく寝かせてとか、準備をしてということではなく、やろう、出そうという感じですもんね。

中村 運が良かったとしかいいようがないですね。

水上 東京の出版社から出すことになったきっかけは、どこかに応募されたんですか?

中村 10社ほど評価いただけるところがあるかと、原稿を持って回ったんです。東京の四谷にあった出版社ですけど、そこの編集長が一晩読ませてくれと。それが一晩どころか、夕方家内に電話したら、編集長から採用の電話がありましたよと。嬉しかったですね。そんなこともあって、少しずつ自信がついてきて、中学校の時に抱いた夢、雑誌を出すという夢に挑戦してみるかなと。

水上 とはいっても、雑誌は一人では出せませんね。

中村 新聞社がすごく大きな記事で取り上げてくださったんです。それを見た知り合いの方から東京の出版社にいた方が、たまたま縁があって、立山町に来ておられ、編集の手伝いをしたいと言っておられると連絡がありまして。

水上 えー、すごいですね。

中村 不思議なことですね。

 

▼1977(昭和54)年11月23日に発刊された『グッドラック(当時はグッドラックマガジン)』創刊号。

 

水上 しばらく滞在するから手伝えるよって、ふつうそこまでないですよ。

中村 その方に色々教えていただいてね。不思議なもんですね。

水上 いろんな記事を掲載しなくちゃいけないですよね。

中村 イタリアのローマから来ておられたロンゴさんという神父さんに相談したら、、これを参考にされたらと、英語の『サンシャイン・マガジン』という雑誌を紹介されましてね。翻訳してもらって読むと素晴らしい内容でしたので、すぐに出版社に記事の引用をお願いしたら、返事が来て、応援しましょうと。提携することになったんです。それまで、日本では翻訳されていなかったから、日本で初めてその記事を翻訳して出すことになったんです。

水上 すごく力強い応援が周り中でね。

中村 そうなんです。私は語学も全く苦手でしたから……。友人が富山大学の図書館の課長で、その方が英語の先生を紹介してあげようかと。

水上 それはやはり中村さんがいろんな素晴らしい方とお知り合いで、中村さんがやられるなら協力してあげたい、と思うような間柄だったということですよね。

中村 そうですね、不思議ですね。

水上 不思議じゃないんだと思うんです。中村さんだから、そういってくださる方が周りにおられたと思うんです。お付き合いだったり、お人柄だったり。偶然だけでそんなたくさんの方が、集まってくださいませんよね。

中村 「あなたには強力な磁力がある」、と言われましたね。自分では気づきませんけど。たしかに不思議なことに自分にないものを持った方がみんなで応援してくださって、11月の23日が創刊日ですけど、45年前は大雪で、夜中からしんしんと降り始めて、まさに嵐の中の船出という感じでしたね。 創刊号の表紙に、船出する帆船の絵を描いてくださったのは、中学時代の美術の佐渡先生。その帆船の絵に私の尊敬するケネディの言葉を引用させてもらったんですが、「水平線の彼方には嵐があることを知っている、しかし、我々は恐れを後に希望を持って舵を取っていく」、と。

水上 そういう心持ちで新しい一歩を踏み出していく決意や、負けないという思いもすごく感じるし、何かあるのはもうわかっていると、「それでも行くんだ!」という心意気を感じますね。

中村 周りから危険だと言って忠告されましたからね。もし失敗したら、一家を犠牲にするかもしれない、それがケネデイの言葉に本当にうまく現れていた。ケネディの言葉には、スピリットが現れているから惹かれたというところがありますね。
 就任演説の時の言葉ですが、「あなたの国があなたに何をしてくれるかを問い給うな!あなたがあなたの国の為に何ができるかを問い給え!」という有名な言葉がありますね。

水上 はっとさせられますね。

中村 奮い立ちましたね。

水上 そういう思いを抱き、45年間やってこられたんですね。

中村 やっぱりいちばん心配させたのは妻の幸子だと思います。

水上 時には励ましてくださったり、力を与えてくださったり。

中村 5人の子どもたちの子育ても大変な中でしたのでね。

水上 それは大変だったでしょう。でも皆さん立派に成長されて。

中村 ええ。一方、グッドラックの座談会から生まれたのが、松川遊覧船です。松川にベニスのゴンドラのように遊覧船が行き交うようになれば、全国、いや世界中から観光客が来てくださるようになる、そうすれば地元の人が誇りを持って、富山の街に親戚や知り合いを呼べると、遊覧船もスタートして35年になるんですよ。

水上 おめでとうございます。そこにも息子さんが関わっていらっしゃったりね。本当に素敵なことだと思います。

 

富山市民に自信と誇りを

中村 世界中から松川遊覧船に来られると、「富山は素晴らしい街だ!」と、皆さんおっしゃいます。中心部に美しい川が流れて森のようになっている——。「こういうところは全国どこにもない」と。ベニスも古い建物はあっても、木がないですからね。富山の人はその良さに気づいていなくて、よその人に、「こんな贅沢なところに住んでいる人はいないですよ」と羨ましがられているのにね。
水上 今後も富山の魅力や遊覧船のことなどをぜひ発信してくださいね。

中村 ええ、市民の方にもっと自信と誇りを持ってもらえるよう、皆さんと一緒に活動していきたいと思っています。

水上 また『グッドラック』を読んでいただいて、「私達こんな素敵なところに住んでいるんだ」と感じていただけたらと思います。今日は、素敵なお話をありがとうございました。

 

▼松川と似た規模の川を生かして、全米ナンバーワンの人気都市となったサンアントニオ。


はばたけ友情の翼―世界J・ライト級チャンピオン・ビラフロアと共に (1975年)(Amazon

BEN VILLAFLOR OF JAPAN (English Edition) Kindle版(Amazon

おすすめ