神通川直線化120周年・『川と街づくり国際フォーラム』開催20周年記念 サンアントニオ・リバーウォーク 川の街 誕生物語 PART2 リバーウォークの父、ハグマンの夢

 

 2003年9月、神通川直線化100周年を記念し『川と街づくり国際フォーラム』を富山市国際会議場で開催してから、今年で20年。
 先月号に引き続き、このフォーラムでの米・サンアントニオ公園管理者、リチャード・ハード氏の講演から、リバーウォークができるまでの経緯を中心に紹介したい。

 

美しい自然を取り入れた川の街へ

サンアントニオ川を愛した建築家・ハグマン

 ロバート・ハグマン(1902〜1980)は、川の美化計画を提案したことによって、非常に大きな功績をサンアントニオに残した人物です。
 サンアントニオ生まれの彼は、テキサス大学オースティン校で学び、1924年から27年までニューオリンズに住んでいました。そこで、「フレンチ・クォーター✴︎」の歴史的な街並みに感銘を受けたことが、後の彼の活動に大きな影響を与えることになります。
✴︎フランス・スペイン植民地時代の雰囲気を残す、ニューオーリンズの旧市街エリア

 自ら事業を始めるため、サンアントニオに戻って来たハグマンは、ニュースで存亡の危機に瀕しているサンアントニオ川のことを知り、川を残すための代案を作りはじめました。そして、1929年、自らの計画をまず保全協会に、そして市長へと提出したのです。
 保全協会と市長はハグマンの計画案に関心を持ち、彼は市の行政委員たちにプレゼンテーションを行なうことになりました。タイトルは「アラゴンとロミュラの商店街」です。これは、商業の発展だけに留まらず、川をとりまく美しい自然の維持も視野に入れた治水対策案でした。

 店が軒を連ね、人々で賑わう川べりの散歩道の様子を描いたハグマンの設計図を用い、市の役員たちや地権者たちへの熱心な説得が、その後6年間に渡って行なわれました。

 

▼自然あふれるロマンチックな水辺空間として、多くの観光客が訪れるリバーウォーク。

 

恐慌でリバーウォークの計画が中断

 しかし、1929年のアメリカの大恐慌によって、資金集めの望みは断たれてしまいました。ですが、川の湾曲部を排水路にし、その上を舗装するという計画は少なくとも回避されたのです。
 1930年代を通して、川の開発にリーダーシップを発揮したのは、ホテルオーナーであり、のちに市長となるジャック・ホワイトです。彼はマーベリック市長とともに、1938年10月に地方債発行を実現し、これによって公共事業局から、当時のお金にして4千万円相当の連邦補助金を得る資金ができました。この連邦政府プログラムは、人々を仕事に復帰させるための政策でした。
 そしてついに1938年12月13日、ハグマンはサンアントニオ美化計画に、建築家として関わることが決まったのです。

 

細部にまで意匠を凝らす

 サンアントニオ川の存亡に関わる長年の論争は、街の起源であるスペイン文化を象徴した公園と、商業スペースとが調和した空間を作り出すというハグマンの計画によって、ようやく終止符を打ちました。
 ハグマンの原案ほど大規模ではありませんでしたが、公共事業局によるリバーウォークの工事は、21ブロック余りに及び、5キロの歩道、21の橋、そこに続く31の階段が作られ、1万1千種の木々が植えられました。
 中でも、アーネソンリバー劇場の建設は、「パセオ・デル・リオ」の絵のように美しい将来像を象徴していました。座席は土手を切り出し、石垣で固定され、芝生で覆われました。
 現在、劇場は1年を通して利用されています。夏の間は1週間に7日、毎晩イベントが催され、そのうち5日は「フィエスタ・ノーチェ・デル・リオ」で、スパニッシュダンスと音楽が上演されます。長年にわたって、大統領候補者の演説が行なわれたり、テレビ局のホリデー特別番組の収録が行なわれたりしています。劇場賃貸料は1日3万円で、地元グループにも利用可能であり、客席は2000席あります。
 このエリアには、ハグマンの創意工夫のひとつが見られます。橋脚のため道が作れない問題を、通りが橋の下を通る構造にすることで〝浮いて見える橋〟を設計し、解決しているのです。
 ハグマンは毎日現場に来て、細かな指示を与え、ブロックごとに、細部にまで凝った、様々な風景が作り上げられました。

 

▼舞台と客席が川によって分離された、ユニークなサンアントニオのリバー劇場。

 

計画途中で解雇されたハグマン

 しかし、ことは順調には進みませんでした。ハグマンは1940年3月に解雇されてしまいます。それは、彼自身がある計画書を提出できなかったためと言われていましたが、現在では、政治がからんでいたのではないかとみられています。
 プロジェクト続行のため、新しい建築家が雇われ、今では〝リバーウォークの父〟と呼ばれているハグマンの功績が認められたのは、20年後のことです。
 プロジェクトから外れても、ハグマンはリバーウォークの成功を気にかけ、ビジネスを呼び込むためにリバーウォーク沿いの建物の地階に事務所を構えました。これを記念し、1990年にはこの建物のバルコニーに彼の名前が刻まれています。

 

▼ハグマンの功績を記念して、彼の名前がはめ込まれた建物。

 

▼1940年代頃のリバーウォーク。

 

ようやく始まったリバーウォークの活用

 このように、現在のリバーウォークの基礎は1940年につくられましたが、水上アトラクションは、カヌーが時々行き来するだけでした。
 以後、1940年代から50年代にかけてリバーウォークには活気がなくなり、歩くには危険な場所だといわれていました。殺傷事件のあと、軍が立ち入り禁止にしたこともあり、店もほとんどなく薄暗いこの地域に、将来の発展を見出す人は居ませんでした。
 1946年、「カサ・リオ」メキシコ・レストランがリバーウォークに開店しました。当時は数少ない店の一つで、台所はしばしば洪水で水に浸かる地階にありました。このように、1950年代を通して、商業界は川に興味を示しませんでした。通りからは客が入る一方で、裏の川からはゴミが運ばれてくることが日常でした。
 1958年、市とビジネスリーダーたちは、川の開発に向けて行動に出ることを決めました。債券が発行され、川の景観向上のため、1,800万円が注ぎ込まれたことにより、ライトが増設され、造園工事が行なわれました。
 そして安全対策も、気を抜けない関心事項です。7人の公園警備隊が、24時間体制で公園の警備にあたることになりました。
 現在では、100人あまりに増員され、公園警備隊が市内すべての公園のパトロールをしています。リバーウォークでの彼らの仕事は、警備のほか、来訪者に情報を提供する大使の役割も果たしています。彼らは常に公園の各所に配備されているため、いつでも質問に答えることができるのです。
 さらに、リバーウォークを市内で最も安全な場所の一つにするため、警備は今でも重要事項です。警察官と保安官が徒歩と自転車で常にパトロールし、中心地域の安全を守っています。

 

▼リバーウォークは道路面から4.5〜7メートルほど下がったところにあり、都会の喧騒を忘れさせる特別な空間となっている。

 


アメリカ・テキサス州 サンアントニオ市
公園管理者 リチャード・ハード氏

テキサス大学で植物学学士号取得。テキサスA&M大学で鑑賞園芸学修士号取得。1981年以降、サン・アントニオ市公園・遊園課に勤務。’81年から’98まで、サン・アントニオリバーウォーク、市洪水対策の管理責任をとる河川管理監督官であった。’03年当時、リバーウォーク、植物園などを含む公園全体の維持管理責任をとる公園管理者。

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