サンアントニオ視察から20周年 神通川から生まれた“松川”は“水の都とやま”の大切な宝物! “水の都とやま”推進協議会(2023年5月14日開催)パネルディスカッションより 【後編】

・出席者/松本弘行(元富山市議会議長、視察団長)、柴 義治(元富山市議会議員)、高田重信(富山市議会議員)、堀田松一(元富山市議会議員)、村上和久(元富山市議会議長)
・コーディネーター/中村孝一(月刊グッドラックとやま発行人)

 

桜並木を活かした魅力的な川べりを

松本 サンアントニオはやはり、徹底して水辺を活かした街を作っていますよね。それに比べると、富山市の松川は「リバーウォーク」とはまだ言い難いですが、それに近い形で、だいぶん整備されてきたと思います。
 ただ、松川のお花見期間というのは、1週間から10日間ぐらいの本当に短期間なんですね。ですから、この賑わいをどう持続していくかが課題になると思います。やはり、富山市にとって、松川の桜は大事な宝です。街の中にこれだけの桜並木がある所は、全国的にもあまり記憶がないですし、これを大切に守っていくことがまず必要だと思います。
 松川からいたち川へ出て、富岩運河まで船で行くという案が以前からありますが、現在のいたち川は急流ということもあり、桜の時以外はあまり魅力がないですね。川沿いには、リバーウォークのようになっている遊歩道もありますが、分断されるところがありますので、なんとか工夫しながら、ずっと川べりを散策できるといいなと思います。その時はどうしても、土手の手入れや草むしりなど市民の協力が必要ですね。
 花を植えて、美化に協力しておられる所も見受けられますし、少しずつでも周辺の整備をしていけたらと思います。現在、富岩運河沿いでは、一時的なソメイヨシノだけではなく、山桜系のものをいろいろと工夫しながら、1カ月ぐらいは花が持つような桜の配置も考えているようです。その視点も大切にしながら、水辺の魅力を高めていければと感じております。

 

松川といたち川のリバーウォークをつなぐ

高田 私はいたち川べりに住んでいますが、桜が大変きれいなので、川べりに降りて花見される方が増えてきております。私たちが犬走りと呼んでいる川べりの遊歩道が、途中途中で排水路のために渡れなくなっているんですね。いたち川から松川まで、ずっとこの遊歩道を歩いて散歩できれば、まただいぶん雰囲気も違ってくるだろうと思います。
 ただ、土手の整備がなかなかなされないということで、土木事務所に雑草の草刈りなどをよくお願いしていますが、予算の問題や、人員の配置が難しいということもあるようです。
 やはり、松川べりの犬走りをきちんと整備して、昔、木町と言っていたいたち川と松川の分岐点から神通川までずっと一本道で歩けれるようになれば、だいぶん雰囲気も違ってくるんじゃないかなと思っています。また、そんな中で、城址公園の改修の今、大きな節目もありますので、そちらとの関連で工事が進んでいけばいいなと思っています。

 

▼松川べりでお花見を楽しむ人々と、その横をゆったり通り過ぎる松川遊覧船の光景は“夢の世界”。

 

市民意識の盛り上がりと洪水対策が大切

 20年前、もう少し問題意識を自らしっかり整理した上で行けばよかったのですが、現在の問題意識は次の2点。1つは、富山市民の日常生活とこの神通回廊構想をどのように結びつけていけるのかということ。それから、治水、洪水対策。最近は何十年に一度という集中豪雨や地震もあちこちでありますので、この治水という視点をこの構想の底辺にしっかり位置付ける必要があります。
 例えば、海抜ゼロメートル以下のデルタに都市を作ったオランダのアムステルダムは街に水路を巡らせていましたが、サンアントニオ市に行った時もそういった問題意識をしっかり持って、構造的に勉強してきたかったなと。アムステルダムは風車も使いながら、これが結果として、観光資源に結びついていますしね。さまざまな視点で、富山市民の皆さんの日常生活と結びついた構想になるように考えて行かなければと思っております。また勉強したいと思います。

堀田 松川にサンアントニオのようなリバーウォークを形成するには、上流と下流に水門を設け、水位を安定化することが前提です。中村さんは長年、県などに働きかけてきておられますが、それは現実的に可能でしょうか?

中村 サンアントニオを視察された森前市長の英断で、大雨や洪水の時は巨大なトンネルを通して水を下流へ流すという設備(松川雨水貯留施設)が完成し、2018年から稼働しています。ですから、いたち川の合流点でバックウォーターが起きなければ、松川は増水することが少なくなりました。しかも、下水は入らないよう仕組まれているそうです。

 

富山市のPRに繋がる西側のお堀の復元

堀田 かなり前から先輩議員が議会で質問し、やっと完成に繋がったのがこの施設ですが、その流れで一歩一歩前進していただきたいなと思っております。また、国際会議場と松川をつなぐという構想もありましたね。

中村 西側のお堀の復元ですね。これは、〝水の都とやま〟推進協議会の皆さんで、藤井新市長に陳情に行ってきました。

堀田 そうですか。先日の教育相会合のような国際会議の際は、国際会議場から船に乗って、松川を眺めていただけることができたら、もっと富山市のPRにつながるのではと思っておりますので、一歩一歩、協力して進めていただきたいなと思っております。

中村 そうなると、世界中から来られた方がびっくりされるでしょうね。実は、貯留施設の完成以来、下水が入らなくなったことで、松川の水がものすごく美しくなってます。夏を過ぎると、農業用水が入らなくなりますので、水がプールの水のように澄んでくるんです。冬に観光客の方で、「この水、飲めるんですか?」と驚くような質問をされる方もありましたね。

 

松川に対する市民の愛情を育てる活動を

村上 ハード面のハードルが非常に高いということを何度も聞いていますので、ソフト面で市民から松川を〝宝物〟と思っていただける雰囲気を醸成していくことも大切ではないかと思います。このパネルディスカッションがあるということを会社の同僚に言いましたら、「サンアントニオを知っている」と言うんですね。なんと彼はバスケットボールのファンで、サンアントニオには「サンアントニオ・スパーズ」という、NBAでも有数の強いチームがあるんだと。。

 

▼右より、村上和久氏、堀田松一氏、柴 義治氏、高田重信氏、松本弘行氏、中村孝一。

 

中村 優勝すると、遊覧船で優勝パレードをするそうですね。

村上 動画配信サイトを検索していただくと、2008年にリバーパレードの画像が出てきます。グラウジーズが優勝したら、それをやるというのではなく、市民の皆さんが、〝松川を身近なものに感じて、もっと親しみを持って接する〟というところまで、富山市も持っていきたいですね。
 富山にもせっかくプロバスケットチームがありますから、例えば、松川沿いにある富山市役所の光の広場で、少年チームや選手を招いて「3×3」(スリーバイスリー)のバスケットをやってみる。それに加えて、リバーパレードを真似てやってみようということから始まって、グラウジーズが優勝したら、ここでまたパレードを行う、といったことを企画したらどうかなと。子どもたちに松川でいろんな体験をしていただきながら、思い出をたくさん作っていくことが大事かなと思います。
 もう一つは、この松川の歴史を知っている方々にもう一度、松川の歴史を振り返っていただき、〝宝物〟だということを思い返していただく。私の地元、愛宕地区は船橋の北側にあることから、橋北と言われ、昭和22年に橋北文化会というのができています。今も、かつての神通川の川幅の両岸にある常夜燈の清掃をしておりますので、このあたりのことも地域限定ではありますが、興味を持っていただければ、松川が〝宝物〟だと言うことも市民の方にご理解いただけるのかなと思います。
 さらに、城址公園の中に「天女の像」というのがあるんですが、この像は、昭和49年に戦後復興を記念して作られたもので、宗教色はありません。この像を松川に絡めて、名所の一つとして市民の方に見に来ていただくということも大事だと思っています。税務署側、城址公園の広場の西側に位置しておりますので、これから城址公園を整備するとすれば、松川からの入口を整備して「天女の像」への入口にすれば行きやすいと思います。ハード面の整備が難しいとなれば、ソフト面において、この城址公園と松川、いたち川公園の一体化をするために市民のみなさんが、本当に〝宝物〟だと思っていただき、〝宝物〟だと思う方がたくさん増えるというような仕掛けをいろいろとやっていったらどうかな、というふうに思います

 

富山の歴史を背景に松川のイメージアップを

中村 素晴らしいご意見をありがとうございます。実は河川課の当時の今井課長様が、視察後、サンアントニオには「リバーウォーク」だけでなく「アラモの砦」があることに気づいた、と言われたんです。アメリカの独立記念日は7月4日ですが、この日にアメリカ人が一番多く集まる場所が、アラモのあるサンアントニオなんです。
 先日、新田知事の取材にお伺いしたんですが、知事はJCで世界中を見てきておられるんですね。そんな中で、「世界中の人達は歴史や文化を非常に大事にしている」と話しておられました。
 その反面、富山は歴史を大切にしてきたとは言えませんよね。例えば、「日本を代表する音楽家、滝廉太郎が少年時代に富山に住んでいた」ことを話題にもしてこなかったわけですから…。23歳10カ月で亡くなった滝廉太郎が、2年近く富山城のそばに住み、小学校に通っていたことは、〝貴重な歴史資源〟ですよね。
 富山城は戦国時代、佐々成政が秀吉に攻められて降伏したという歴史があり、そこに『荒城の月』のテーマとなった敗れていった人たちの哀れみがあるように思うんです。もし、富山城が『荒城の月』のモデルになったのでは、との話が全国に広がっていけば、富山城を一度は見てみたい、と観光に訪れる人が増えるんじゃないか、ということも実はあるんです。「歴史のある富山へ行ってみよう」という人が増えれば、松川と合わせて全国からもっともっと多くの観光客が来られるのでは、と思っております。
 本日は20年前のサンアントニオ訪問で得た経験を、当時の訪問団の市議会議員の皆様にお話しいただきました。誠にありがとうございました。

 

▼1993(平成5)年、滝廉太郎の母校、富山県尋常師範学校附属小学校跡地に建つマンションの1室にオープンした「滝廉太郎記念館」。富山城の石垣に「荒城の月」が輝く絵画が展示されていた。(現在、「滝廉太郎記念館」は富山城址公園にある松川茶屋内に移設)

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