「全国疎水百選」認定 舟倉用水(富山市)

20年かけ完成

 江戸時代後期、砺波郡内島村(現・高岡市)の十村(とむら)役(大庄屋に相当する役職)であった五十嵐孫作・篤好(あつよし)父子は、時の加賀藩主の開墾奨励により、水に恵まれず、不毛の荒れ野であった船峅(ふなくら)台地を肥沃な水田に変えるため、神通川支流の長棟(ながと)川(薄波川)から水を引いて用水を作る事にし、寛政8(1796)年から文化5(1808)年の13年間を測量設計に費やし、文化7(1810)年より工事を始めた。工事は、幅5尺(1・52m)、深さ3尺(0・91m)の水路を造るものであったが、峻険極まりない神通峡右岸中腹を掘る作業は、非常に困難であった。土木技術が進歩していない当時の事で、ノミ、タガネ、コヅチを唯一の工具として進められた。巨大な岩石に遭遇すると、草木を刈り集めて焼き、岩石を熱し、その上に水を注いで急冷して、亀裂を作り、破壊するという工法をとり、難工事を続けながら、7年の歳月をかけて文化13(1816)年に完成させた。延長は14㎞余り。船峅台地の水田360haに水を運ぶことを可能にした。
 工事には、上銀(じょうぎん)1200貫匁(4500㎏)、玄米1000石(15万㎏)、現在の価値に換算すると、約16億8000万円かかったと言われる。
 直坂(すぐさか)の級長戸辺(しなとべ)神社境内には、五十嵐父子ら功労者の顕彰碑が立っている。この中には、算学者の石黒信由、十二貫野用水(黒部市)を完成させた椎名道三の名前も見える。
 ちなみに、五十嵐孫作は、改作奉行宛に提出した用水の詳細な絵図に、自作の和歌13首を書き入れるほど、和歌に打ち込んでいたそうだ。用水工事によって住みかを失う川魚に対する鎮魂の思いをこめた作もあるという。
 その後、風雪による落石や土砂の崩落などが毎年のようにあり、維持管理に苦労していたそうだが、平成元年度より、用水路の再改修(県営かんがい排水事業)が着手され、平成17年度に完成した。これにより、年間を通じた用水の安定供給と、維持管理の軽減が可能になった。
 平成18年2月22日には、農林水産省の「全国疎水百選」にも認定された。
 今回は、熊の出没が心配されたため、取水口の写真は撮れなかったが、いつか見に行ってみたいと思っている。片路峡など、神通峡を見に行かれたついでに、舟倉用水にも足を運んでみてはいかがだろうか。

参考文献等/「神通川と呉羽丘陵」(廣瀬誠著・桂書房)、案内板


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