桜橋(富山市)

昭和10年に竣工

 

 現在の桜橋は、昭和10年(1935年)に竣工しました。上路式鋼2ヒンジアーチ橋とよばれ、左右2つのヒンジ(蝶番)によって支えられています。橋長は15.5m、幅員は21.9mと長さより幅の方が広く、かつ川に対して斜めに架けられています。リベット打ちの鋼製アーチが美しい橋です。
 平成11年11月18日には、国の登録有形文化財として登録されました。橋梁の登録は県内では初めてのことで、また鋼アーチ橋としては全国初の登録でした。
 「都市 富山の礎を築く」(白井芳樹著・技報堂出版)によれば、桜橋ができる2年前の昭和8年に、RC(鉄筋コンクリート)アーチ橋として竣工した上流の安住橋とツインの市街橋として設計されたと考えられるそうです。(昭和10年に現在の場所に移転した県庁を東西にはさむ橋として、同じ都市計画事業によって作られていることから)
 「桜橋」という橋名は、橋のたもとの案内板によると、富山藩主10代・前田利保(1800〜1859)が富山城の東の出丸に御殿(千歳御殿)を建て、御殿から見える神通川(今の松川)の土手に桜を植えて美しい眺めを楽しんだといわれており、その地に架かった橋ということで名付けられたということです。
 さて、現在の桜橋は、実は3代目(仮橋も含めると4代目)となるようです。1代目は、明治39年に、富山ホテルの主人がホテルの裏から愛宕新地(遊郭)を結ぶため独力で架けた橋で、当時はまだ神通川の流れがあったため、流水部の長さが45間(約81m)、幅10尺(約3m)でした。しかし、明治43年の神通川の出水で流出してしまいました。
 その後、仮橋が架けられていましたが、大正2年に一府八県連合共進会(会場は現在の富山いずみ高校の場所)が開催されることが決定したため、今度は市費で架設されることになり、大正2年7月18日に渡橋式が開かれました。橋の長さは80間(約144m)、幅19尺5寸(約5.8m)、同時に開通した市内軌道(市電)の専用橋も併設されました。ところが、この桜橋も翌年の神通川の大出水により流出してしまい、同年中に改築工事が竣工しています。
 明治34〜36年に行われた神通川の馳越線工事(いわゆるバイパス工事)の結果、水が流れなくなっていた旧神通川の流路は大正10年に馳越線と堤防によって切り離され、広大な廃川地が生まれました。昭和になり、この廃川地が富岩運河を掘った時に出る土砂を利用して埋め立てられることになり、一部は松川として残され、そこに、現在の桜橋が架けられたわけです。
参考文献/「博物館だより 第四十号」(富山市郷土博物館)

 

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