新庄城跡、尻垂坂古戦場(富山市)

上杉謙信が一揆勢と合戦

 

 新庄城は、現在の新庄小学校にあり、東に常願寺川、西に荒川を望む要害の地にあり、北陸道に面する交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の拠点として重要であった。永正17年(1520)、越後の長尾為景は神保慶宗らを討つために越中に侵攻し、慶宗を敗走させ自刃に追い込んだ。このとき新庄に陣を構えたことが初めての記録という。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたとみられる。元亀3年(1572)、上杉輝虎(謙信)の武将・鯵坂長実が在城。同年5月、一向一揆勢が富山城を攻略すると、新庄城は、上杉氏の富山城攻めの前線基地となった。同年8月、謙信の約1万の軍勢が新庄に結集。一向一揆軍はわずか4000の兵力とあって、総指揮を担当する瑞泉寺の杉浦壱岐玄任は、加賀の坪坂伯耆らに頼み、江沼、能美両郡からの援軍を求めた。こうして新庄城と富山城との間で激しい攻防戦が始まった。特に、尻垂坂の合戦がすさまじかった。尻垂坂は、西新庄の正願寺前あたりから、田中町の間のびや川の堤の登り口地域にあった。両軍が激突した頃から幾日も雨が降り続き、多数の戦死者の流血によりびや川の流れが真っ赤に染まったといわれる。そして、一揆勢は破れた。謙信は戦死者を弔い、経堂を建てたので、このあたりの地名を〝経堂〟という。その後、佐々、前田の城となり、元和元年(1615)までには廃城となったとみられる。 


▲新庄小学校グラウンド。新庄城の本丸があったと推定される。江戸時代の記録では、東西約140m、南北100m以上。周囲には土塁と幅約8mの堀がめぐっていた。


▲正願寺前にある薄地蔵尊。謙信が敵の首を埋めた首塚に自然石の石塔を立てたもの。


▲全福寺


▲門前には寛政年間に建立された道しるべ。「寺の方江戸道、是より東大いわみち」と刻まれ、ここから大岩不動への参道が分岐していた。


▲新川神社


▲橋宮神明宮


▲金岡邸も旧北陸道沿いに


▲旧北陸道の面影を残す通り


▲赤江川橋。富山藩と加賀藩の藩境で両藩の折半で橋が架けられたという。

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