◇戦後80年〜富山大空襲からよみがえった富山市中心部◇ 平和のシンボル空間へと生まれ変わった松川

富山観光遊覧船㈱社長・グッドラックとやま発行人 中村孝一

 1945(昭和20)年8月2日未明、174機の米軍B29爆撃機が、富山城址公園東南隅を目標中心点として、50万発以上の焼夷弾を投下した。
 富山市中心部は瞬く間に火の海となり、人々は火から逃れようと松川や神通川へと逃げ惑ったが、この中に母に背負われた私(当時11カ月)もいた。2人の姉と5歳の兄の手を引いて松川にたどり着いた母は、笹舟に乗せてもらい、川面に雨あられと降り注ぐ焼夷弾におびえながら、爆撃が止むのを息を凝らして待っていたいう。そんな中、赤ん坊の私が大声で泣き叫ぶので、「『B29に聞こえるから、泣くな』と必死にあやしたんだ」と、後に兄からよく聞かされた。何かが当たったような衝撃を背中に感じた母が慌てて私を下ろすと、防空頭巾のおかげで無事だったことがわかり、ホッと胸を撫で下ろしたそうだ。こうして、松川で命拾いをした私だが、この大空襲では富山の市街地の99.5%が焼き尽くされ、2700人以上の市民が亡くなった。
 現在、春には美しい桜が咲き誇り、全国有数の花見の名所となった松川。1988(昭和63)年、期せずして私はこの場所に遊覧船を運航することになった。訪れた多くの人々に幸せを感じてもらうことは、松川で奇跡的に助かった私の使命のようにも感じている。

松川では、遊覧船や橋の上からお互いに笑顔で手を振る和やかな光景が見られる。

おすすめ