中沖 豊 さん(1927-2018)〝夢と情熱を持って戦った中沖さん〟

文/中村孝一

 中沖豊さんが、6月24日亡くなった。知事として初登庁された時と同じく、空はあくまでも青く、爽やかな日だった。
 中沖さんと初めて会ったのは、昭和50(1975)年。『はばたけ友情の翼』を出版し、富山県教育長としての推薦の言葉をいただくため、訪ねた時である。5年後、知事に当選され、「県が何をしてくれるかではなく、あなたが県のために何ができるかを考えてほしい!」と声を張り上げる姿に、ケネディの再来かと思ったほど、夢と情熱を持った方だった。
 昭和52( 1977)年、グッドラックを創刊したことで、インタビューの機会が増え、中沖知事が富山県を「川の王国」として全国にPRしようとしていることに気づいた。特に、県都・富山の中心を流れる松川を、〝水の都とやま〟のシンボルにしたいとの願いがあり、「松川環境整備事業」について構想をうかがった。
 「水は命の源泉であり、安らぎと潤いをもたらす。河川環境の整備は、そのまま美しいふるさとづくりにつながる。ところが、河川敷が有効に活用されていない。特に松川の環境整備事業では、堆積した泥を一挙に取り除き、親水護岸に整備し、さらに河川内遊歩道を設けて、県都にふさわしい安らぎと潤いの新天地にしたい」——これは昭和59( 1984)年度の総合計画で発表された。国が平成9 (1997)年に河川法を改正し、ようやく「環境」を柱に入れたことを考えると、いかに先見性があったかがわかる。
 昭和62(1987)年8月、〝水の都とやま〟の歴史をよみがえらせようと、松川遊覧船の試乗会を開催した後、お会いすると、「商工労働部長から『風情があり、とてもよかった』と報告がありました」と。平成元(1989)年にはサンアントニオ市の視察から帰ってこられ、総曲輪通りの入り口で偶然お会いした時は、「松川と変わらないヒューマンスケールな川をうまく活用し、リバーウォーク(河川内遊歩道)には、雨が降って増水しても水が遊歩道に上がって汚れないよう、水門で閉じられるよう工夫していました。松川も上流の磯部のゼロカット水門の管理をしっかりやれば、同じようにコントロールできますね」と。
 また、「飲食ができる『滝廉太郎Ⅱ世号』を就航していただきましたが、例えばこの船を富岩運河に乗り入れることができれば、富山城から富山港への舟運復活も夢ではありませんね」との言葉を受け、平成11(1999)年開催された「全国運河サミット」で実現し、あなたの夢を叶えることができましたね。
 さらに、県のイメージアップを図るため、〝3つの日本一〟を掲げているが、その中の〝文化面〟が一番弱い、との話に私は、「不朽の名曲〝荒城の月〟を生んだ滝廉太郎が、少年時代、小学校の行き帰りに富山城址で遊んだ想い出が、あの名曲のモチーフになった可能性があり、富山の人はもっとその事実を知って、誇りにすべきです」と話した。
 中沖知事は「富山城で遊んだイメージが、滝廉太郎の楽想に大きな影響を与え、〝荒城の月〟の作曲につながった。これは大変夢のある話で、もっとPRが必要ですね」と。さらに、私が「九州人の郷土愛から、昭和52年に小学校跡に少年像が建立された時、市民がこの計画に1人も参加していない。今度は市民の手で建立したいと思っています」と続けると、中沖知事は「いいことですね。富山を文化の街にしていくためにも大賛成です」と励まして下さった。
 奇しくも、6月24日は、松川茶屋で「滝廉太郎研究会」の勉強会が開催されたのだった。
 私は富山県の発展のために戦った中沖豊さんが忘れられない。 

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