中井敏郎さん(1944-2024)松川をサンアントニオをモデルに風情あふれる夢の空間に!
文/中村孝一
前県薬業連合会長で東亜薬品会長の中井敏郎さんが、昨年12月11日、80歳で亡くなった。
中井さんと初めて会ったのは、1995年。創業55周年、3代目社長に就任されて8年目の時である。
「富山の伝統産業は、『反魂丹』に代表される〝薬〟で、大先輩が〝先用後利〟という消費者ニーズに合った商法を編み出し、現在に至っているわけですが、これからも時代にマッチしたシステムを先取りしていかねばならないですね」と。2年後、「今、〝アイボン〟という目の洗浄液が全国で爆発的に売れているんですよ!」と、あなたは顔をほころばせておっしゃっていましたね。
「アメリカのサンアントニオに行った時に、たまたまドラッグストアで買い求めた目の洗浄液がとても良くて、こういうものを当社でも開発できないか、と思ったのがきっかけだったんですよ」。
発売して約1年半で、年間600万本を出荷するヒット商品に。
この経験を通じて、あなたは「〝運〟と〝縁〟がなければ、どんなことも成功しない」とおっしゃっていましたね。中井さん、あなたにとって〝幸運〟の場所となったサンアントニオとの出会いについて、「近くのシギーンに知人が居たことや、副社長時代、テキサス大学に医薬品の見学・研修に訪れたのがきっかけで、その後も魅力にとりつかれ、何度もリバーウォークを訪れましたが、1985年、サンアントニオ市から富山市に〝姉妹都市(シスターシティ)〟の申し込みがあったのに、実現しなかったのがとても残念です」、と、当時の中沖知事と共におっしゃっておられましたね。
今から50年前、あなたがまだ30代になったばかりの時に、初めて見たサンアントニオの魅力を、当時の県や市に説明し、「松川河畔をサンアントニオのようにしましょう!と提案したのに、無視されてしまった」と悔しがっておられましたね。「行政マンは松川や街に対する愛情、情熱がない、と思いました。市民も松川の大切さに気づいていない」と。
しかし、私が2003年に〝神通川直線化100周年記念〟に、国、県、市などの後援を得て、〝川と街づくり国際フォーラム〟を開催し、「サンアントニオのリバーウォークをモデルに松川を中心にした『川の街の創造』を研究することにしました」と報告すると、あなたは目を輝かせて「ようやく行政もサンアントニオの魅力に気づいてくれるかな」と。そして「〝こんな街にしたい〟ということを言い続けることが大切!」と力説しておられましたね。さらに、「物事は、熱くならないと駄目なんです。薬業界も同じ。みんなでこういう方向へ進もう、とベクトルを合わせていく。富山市を良くするには、神通川から生まれた松川を良くすれば自然に良くなるんですよ。人通りも良くなりますしね。街には美しい川が必要なんです」。そして、「一言で言うと、風情ですよ。それは一番贅沢であり、文化であり、和みです。そこを遊覧船が行き来するなんて、すばらしいですね!」と励まして下さいましたね。
私は富山市がサンアントニオをモデルに、「リバーシティ」として開発されることを夢みた中井敏郎さんが忘れられない。