楽聖滝廉太郎を偲ぶ(後編)

地域文化論 1988年5月号

富山大学名誉教授 植木忠夫

 大分大学教授・小長久子著「瀧廉太郎とその作品(音楽之友社発行)によれば、日本男児をはじめ、春の海・春・花・箱根八里・桃太郎・かちかち山・鳩ぽっぽ・雪やこんこん・お正月など40数種の作曲が盛られており、まことになつかしいメロディばかり、わずかに23年と10カ月たらずの短い生涯で、よくもこんなに名高い曲を残されたものだと楽聖の偉大なあしあとを惜しまれてならない。
 滝廉太郎は、明治12年8月24日、当時内務省の官吏であった滝吉弘氏の長男として出生、私が32年の出生であるから、20年の先輩ということになる。神奈川小学校に入学したが、ただちに富山県附属小学校に転校して、ここで約2年の生活をしたのは、父・吉弘が富山県書記官(今の副知事)として転任したからである。富山の生活については、山岸曙光氏が「総曲輪懐古館(巧玄出版社)」に「荒城の月と富山城」と題して述べたものがある。とにかく父につれられ上京して後、東京音楽学校専修科研究科と進み、ピアニストとしての演奏活動をしつつ作曲し、認められて文部省留学生としてドイツ・ライプチッヒ音楽学校に入学したが、肺病にかかり、大学病院に入院、帰国命令が発令されて帰国、一応東京に落ち着いて「荒磯」を作曲、大分市両親の家に落ち着き「憾」を作曲、明治36年6月29日死去(真心正廉居士)大分市万寿寺に墓がある。「荒城の月」が「豊太閤」「箱根八里」とともに中学唱歌に採用されたのは34年ドイツへ出発の直前である。私が渡欧の際ユングフラウの登山電車の中で「荒城の月」をスイスの婦人たちと合唱して、滝廉太郎が世界的な音楽家であることを泌々(しみじみ)と知った素晴らしい思い出がある。
 楽聖廉太郎少年像は、新名所として富山市に寄贈された。


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