いたち川の水車跡?(2)(富山市)

 2018年2月号の当コーナーで、「富山町の水車(カッチャ)」と題し、かつての磯部村やいたち川沿いの水車を紹介した他、同年5月号の『地域の雑学』コーナーでも、「いたち川の水車跡?」と題して、いたち川に注ぐ与茂太郎川沿いを紹介しましたが、今回は、別の資料で水車小屋について探ってみましょう。
 富山市科学文化センター(現在の富山市科学博物館)の『とやまと自然』〈1999年秋の号〉によると、流れが速く水量も豊富だったという、現在の「いたち川橋」付近から下流にかけての両側に、カッチャ(水車小屋=搗屋)があったようです。なお、水車はいたち川に直接架けたのでなく、水路を引くか、用水を利用していたとのこと。江戸時代から昭和の初めまで、精米・製粉・油絞り・綿打ちや線香搗屋・生薬搗屋などの建物が立ち並び、直径6〜8mの大きな水車が音を立てながら回っていました。また、生産に必要な原材料の運搬には笹舟が使われていたそうです。 
 『鼬川の記憶』(桂書房)によると、「いたち川橋」左岸、下ってすぐのところに樫井の〝綿カッチャ〟がありました。更に下流の中大泉橋と法蓮寺橋の間の左岸に、若林と宮田の〝粉カッチャ〟があり、宮田では落雁の粉を作り、今の西大泉公民館の辺りでお菓子を作っていたそうです。また、「いたち川橋」左岸の上流側の少し入った本泉神社の近くに別の宮田さんのカッチャがあり、こちらは〝くすりカッチャ(生薬搗屋)〟だったそうです。

■参考…『とやまと自然』〈1999年秋の号〉(富山市科学文化センター)、『鼬川の記憶』(島原義三郎・中川達・編、桂書房)

 

 

 

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